2019年12月14日
日本橋
甲州街道を歩くため、3度目の日本橋に立ちました。天気は晴れ、少し寒いのですが、日中は15℃以上の暖かさになる予報です。
日本橋の写真を撮って、 9:25に南へ歩き始めます。上の高速道路は近いうちに地下を走ることになるそうです。景観がだいぶ良くなりますね。
すぐの日本橋交差点を右折して永代通りへ入ります。直進方向は東海道です。
土曜の朝、人通りは少ないです。
JRの高架が見えてくる呉服橋交差点で寄り道をするため右折します。
50mほど歩くと日本橋川にかかる一石橋を渡ります。かつてこの橋の北側には金座御用の後藤庄三郎、南側には呉服商の後藤縫殿助の屋敷がありました。後藤から五斗、五斗と五斗で一石という洒落で名前がついたそうです。
常盤橋交差点を過ぎると、右手には日本銀行本店本館の重厚な建物が見えます。明治29年(1896年)に建てられました。設計は東京駅を手掛けた辰野金吾によるものです。
常盤橋交差点に戻ると右手には、常盤橋が架かっています。昭和元年(1926年)に架けられた橋で瀟洒な親柱が立っています。常盤橋の先の上流側には、かつての江戸城常盤橋門がありました。
外堀通りを戻り、一石橋の上から常盤橋の二重アーチを見ることができます。常盤橋も高速道路に覆われてしまっています。
一石橋を渡り切ると右手には大きな親柱が立っています。大正11年(1922年)に架けられた橋が、平成9年に架け替えられましたが、その際、4本あった親柱のうちこの1本だけが残されました。
この近辺は再開発のための工事を行っています。高層ビルがまた増えるようです。
呉服橋交差点に戻り、甲州街道に入ります。交差点で一旦反対側へ横断して、東京駅を目指して歩きます。
呉服橋交差点角に建つ鉄鋼ビルとその先の丸の内トラストタワーの間にある遊歩道に入り寄り道をします。
遊歩道は鉄鋼ビル側とトラストタワー側の2本に分かれていますが、トラストタワー側に入ります。すぐの右手に、遠山の金さんで有名な北町奉行所跡の説明板があります。平成12年に発掘調査が行われました。ちなみに南町奉行所は有楽町駅近くにありました。
その先に進むと、江戸城外堀の石垣が再現されています。八重洲南口付近にあった鍛冶橋門付近の石垣石をこの場所に積み上げています。石の表面には石を割った矢穴が見られます。
甲州街道に戻り、その先の東京駅日本橋口から駅構内に入ります。そして、八重洲と丸の内の連絡通路を通って丸の内側に抜けます。
丸の内北口のドームを見上げてみました。普段はこんなことしませんが、よく見るとレリーフが施されていて素晴らしいものです。上を飛んでいる白い鳥は鳩ではなく鷲のようです。
東京駅前の広場に出ます。いつ見ても立派な駅舎です。
東京オリンピックの開会式まであと223日です。
甲州街道に戻ります。右手には日本工業倶楽部会館があります。大正9年(1920年)に竣工されましたが、老朽化のために平成15年(2003年)に改修され当時の状態で保存されています。国の登録有形文化財に指定されています。
この地は伝奏屋敷があった場所です。幕府との交渉役である朝廷の使者(武家伝奏)の宿泊施設でした。
すぐにお濠端に突き当ります。正面には和田倉橋が架かっていて、その先には和田倉門がありました。木橋風の橋が往時の風情を残しています。
濠に沿った日比谷通りを左手へ進み、和田倉門交差点を右折して皇居外苑へ寄り道をします。
右手和田倉濠の向こうに和田倉橋が見えます。風もなく、水面が鏡のようにビル街やイチョウの木々を映しています。
その先で内堀通を越えると、手前に桜田巽二重櫓、その先に桔梗門が見えてきます。桔梗門をくぐると、先は三の丸になります。今は入れません。大手門とともに大名の登城門となっていました。
桔梗門から蛤濠に沿って右に曲がると坂下門が見えてきます。
桜田門外の変の後の文久2年(1862年)、老中安藤信正が坂下門外で攘夷派の水戸浪士の襲撃に合い、幕府の権威はさらに著しく失墜しました。