今に続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

甲州街道(1)日本橋から初台 その2

 

2019年12月14日

 

二重橋

 

 その先は二重橋です。正式には正門鉄橋という名前です。かつては橋の強度を保つため橋桁を二重構造にしたことから二重橋と呼ばれていました。たたし、現在の二重橋は二重になっていません。

f:id:mame-lantern:20200730214057j:plain

  

 そして、皇居一の撮影スポット、正門石橋と伏見櫓です。ここは二重橋ではありません。

 写真を撮っている観光客のほとんどが外国人だったのではないでしょうか。

f:id:mame-lantern:20200730220149j:plain

 

 この場所は桜田門の近くなので、甲州街道をショートカットできたのですが、街道をなるべくトレースするために、ここから和田倉門交差点に戻ります。

 やはり、外苑は広々としていますね。

 やっと暖かくなり、マフラーを取りました。ゆっくりし過ぎたようです。そろそろ先を急がないと。

f:id:mame-lantern:20191221212116j:plain

 

 行幸通りも広々としています。正面には東京駅が見えます。

 このあたりのイチョウの葉はほとんど落ちていました。今年は暖かい日が続きイチョウの紅葉もだいぶ遅くなっていましたが、そろそろ終わりの季節のようです。

f:id:mame-lantern:20200730221109j:plain

 

 和田倉門交差点を右折して甲州街道に戻ります。

 すぐの左手には明治生命館が建っています。昭和9年(1934年)に建てられました。太平洋戦争後はGHQに接収されました。重要文化財に指定されています。

f:id:mame-lantern:20191221213927j:plain

 

 日比谷濠の脇を歩きます。今日は天気が良いため、皇居の周りをランニングする人が結構います。みなさん、左回りで、それもグループで走っている方が多いので、あっちよけて、こっちよけしながら歩きました。 

f:id:mame-lantern:20191221222319j:plain

 

 帝国劇場の先には第一生命館が建っています。昭和13年(1938年)に建てられました。このビルも太平洋戦争後はGHQに接収されました。平成に入って再開発が行われ、通りに面している部分は改修、維持されました。マッカーサーの執務室が保存されています。

f:id:mame-lantern:20191221223439j:plain

 

 日比谷交差点に到着します。甲州街道は濠に沿って右折します。

f:id:mame-lantern:20191221224215j:plain

 

 日比谷交差点を右折する前に、寄り道をします。

交差点を横断して、向かいにある日比谷公園に入ります。右手に歩いてすぐのところに日比谷見附跡があり、石垣が残っています。

f:id:mame-lantern:20191221225003j:plain

 

 石垣を左手裏から上ると、足元には心字池が広がっています。この池は元は濠の一部でした。

f:id:mame-lantern:20191221225433j:plain

 

 甲州街道に戻り、左側の歩道を歩きます。祝田橋交差点の先左手には、法務省の赤レンガ館の瀟洒な建物が目に入ってきます。この建物は明治28年(1895年)に旧司法省庁舎として建てられました。その後、太平洋戦争の空襲での焼失、改修を経て、平成6年(1994年)に創建時の姿に復元されています。桜田門交差点を左へ少し歩くと、建物正面に立つことができます。

f:id:mame-lantern:20200328183915j:plain

 

桜田門交差点に戻り、内堀通りを横断して桜田門に向かいます。

 桜田門は外桜田門と呼ばれ、防御のために外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造になっています。関東大震災で破壊されましたが、その後に復元されたものです。

 万延元年(1860年桜田門の外で大老井伊直弼が水戸浪士によって暗殺されました。いわゆる桜田門外の変が起こった場所です。

f:id:mame-lantern:20191221232534j:plain

 

 再び甲州街道を歩き始めます。右手の濠は桜田濠です。振り返って桜田門を望みます

f:id:mame-lantern:20200730220708j:plain

 

 桜田門から10分弱歩くと歩道脇に柳の井の説明板があります。桜田濠土手下にある井戸で、傍らに柳の木があったことから柳の井と呼ばれていました。干ばつの際にも枯れることがなかったそうです。どこに井戸があるのかよく分かりませんが、下に通じる階段があったので写真を1枚撮りました。

f:id:mame-lantern:20191221234459j:plain

 

 緩やかな坂を上りつつ三宅坂交差点あたりまで来ると桜田濠の先に半蔵門の土橋が見えてきます。半蔵門まではもう少し上り坂が続きます。

 江戸城は西側から続く武蔵野台地の縁に建っています。その南側は日比谷入江と呼ばれる海でした。江戸時代初期に町割りを広げるため埋め立てが行われました。

 半蔵門までは台地の上まで続く坂道を上ることになります。

 ちなみに、豊臣秀吉により徳川家康が江戸へ移封された際、荒涼と広がる葦の湿地帯を見て家臣たちは激怒しましたが、家康はこの武蔵野台地の縁と難攻不落の大阪城が立つ上町台地とを重ね合わせ、将来の江戸の町の構想を考えていたと言われています。

f:id:mame-lantern:20191222201844j:plain

 

 三宅坂交差点付近で振り返ると、かなり上ってきたのが分かります。

f:id:mame-lantern:20191222205405j:plain

 

 三宅坂交差点を一旦横断します。最高裁判所の角にある小公園に渡辺崋山誕生地の説明板が立っています。崋山はこの地にあった三河田原藩上屋敷で生まれました。江戸時代後期の政治家、画家として名前を残しましたが、最後は幕府の対外政策を批判して、蛮社の獄で捕縛されてしまいました。

f:id:mame-lantern:20191222213123j:plain

 

 再び、内堀通りを横断してお濠端を半蔵門目指して歩きます。すぐの右手には特別史跡江戸城跡の石碑が立っています。あまりにもひっそり置かれているので、気づかずに通り過ぎてしまいそうです。

f:id:mame-lantern:20191222215417j:plain

 

 やがて半蔵門に到着します。他の門と比べ警備が厳重です。

 半蔵門の由来はあの服部半蔵が近くに居を構え警備に当たったという説もあります。今も昔も重要な出入り口だったのですね。

 甲州街道江戸城が敵に攻め込まれ、将軍家が退却を余儀なくされたときに、甲府へ逃げ込むための道路であったと言われています。このため、現在の番町には旗本の大番組が、新宿の百人町には鉄砲隊が、八王子には郷士で組織された千人同心が配置され甲州街道沿いの守りを固めていました。

f:id:mame-lantern:20191222215700j:plain

 

 土橋の脇から桜田濠を眺めてみました。かなりの高台にあります。

f:id:mame-lantern:20191224221406j:plain

 

 

甲州街道(1)日本橋から初台 その3へ続きます。

 

甲州街道(1)日本橋から初台 その1へ戻ります。