今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

甲州街道(3)調布から日野 その1

 

2020年1月3日

 

調布

 

 正月の3日目、2020年の歩き始めです。8:15に調布駅に着きました。天気は快晴。気温は結構寒く5℃以下だと思いますが、風がないので歩くにはまあまあの気候です。スタバで朝食を取って、8:35から歩き開始です。

f:id:mame-lantern:20200104224714j:plain

  

 調布駅北口交差点を左折して甲州街道に入ります。やはりカメラを持つ手が冷たいです。調布駅北口交差点からは小島地区に入ります。かつての小島村は上布田宿の加宿でした。

f:id:mame-lantern:20200104225225j:plain

 

 すぐの右手、駐車場のフェンスの内側に小島の一里塚跡の碑と説明板があります。ここには昭和40年まで樹齢200年のエノキの木が立っていました。日本橋から数えて6里目の一里塚です。

f:id:mame-lantern:20200801101656j:plain

 

 その先、町名が下石原、上石原と変わります。かつての下石原宿、上石原宿に対応しているのだと思います。

 西調布駅入口交差点から上石原町に入ります。その左手のお寺は西光寺です。

f:id:mame-lantern:20200105134851j:plain

 

 山門の脇には新撰組局長近藤勇の像があります。近藤勇はここ上石原の出身です。鳥羽伏見の戦いの後、慶応3年(1867年)に甲陽鎮撫隊を編成し、甲府に向けて出陣しました。その際、故郷のここ西光寺で休憩を取り、村人から大歓迎を受けたそうです。

f:id:mame-lantern:20200105135849j:plain

 

 西光寺を出るとすぐに中央高速道路の下をくぐります。

f:id:mame-lantern:20200111133912j:plain

 

 飛田給駅入口交差点の先、左手には飛田給薬師堂がありますが、その脇から左へ入ると品川街道に繋がっています。品川街道は五街道制定時の初期の甲州街道でした。

f:id:mame-lantern:20200801104221j:plain

 

 やがて府中市に入ります。車はそこそこ走っていますが、比較的静かな町並みが続きます。

f:id:mame-lantern:20200801100516j:plain

 

 府中市に入って12分、西武多摩川線の踏切を渡ります。

f:id:mame-lantern:20200801100932j:plain

 

 さらに7分ほど歩くと、白糸台一丁目交差点に着きます。ここを左折して先ほどの品川街道を目指します。

f:id:mame-lantern:20200105144811j:plain

 

 一つ目の信号のある交差点の左右方向が品川街道です。ここを右折します。

f:id:mame-lantern:20200801101336j:plain

 

 品川街道はセンターラインもない静かな住宅街の通りです。

 品川街道に入って5分、左手には常久の一里塚の碑が立っています。日本橋から数えて7里目の一里塚です。

f:id:mame-lantern:20200105145518j:plain

 

 府中市の通りを示す表示板はなかなか洒落ています。

f:id:mame-lantern:20200801102350j:plain

 

 その先で東府中駅の脇を通り、先ほどの分かれた甲州街道と合流します。

f:id:mame-lantern:20200801102827j:plain

 

 甲州街道は駅前を真直ぐ横切り、京王線の踏切を渡ります。京王線と競馬場へ行く線路の間を進みます。

f:id:mame-lantern:20200105151553j:plain

 

 しばらく歩くと左手には八幡宿碑があります。

 甲州街道が開設される際、ここから少し離れた国府八幡宮周辺の住民を街道周辺に移動させて八幡宿としました。宿場町ではなく、農業を中心とした村落でした。

f:id:mame-lantern:20200105183043j:plain

 

 このあたりはマンションやビルの立ち並ぶ街道で、府中の中心部ももうすぐです。

f:id:mame-lantern:20200105194919j:plain

 

 

府中宿

 

 八幡宿交差点から宮町に入ります。この辺りはかつては新宿と呼ばれていました。府中宿は東から新宿、本町宿、番場宿から成り立っていました。

 すぐの右手には新宿公園があり新宿の幟が立っています。

f:id:mame-lantern:20200105200919j:plain

 

 大國魂神社東交差点を横断した右手には、明治天皇行在所跡の説明板がひっそりと立っています。明治天皇行幸の際に6回この地の田中家に宿泊、休憩をされました。建屋は平成元年に多摩川沿いにある府中市郷土の森に移築されました。

f:id:mame-lantern:20200105201754j:plain

 

 その先は大國魂神社の参道と交差します。本日は正月の3日ですが、かなりの初詣客でごった返しています。お参りをするとかなりの時間がかかりそうなので、通りから失礼します。

f:id:mame-lantern:20200105204255j:plain

 

 すぐの府中市役所前交差点付近は本町宿で、往時は大変賑わっていました。甲州街道鎌倉街道が交わる場所で、札ノ辻と呼ばれていました。交差点を横断した左手には高札場が残っています。かつては甲州街道に向って建てられていましたが、現在は交通の都合上交差点に向くように移設されています。

 後ろの朱塗りの門と柵で囲まれている場所は大國魂神社御旅所で例大祭には神様を載せた神輿が休憩する場所です。

f:id:mame-lantern:20200105215544j:plain

 

 通りを隔てた反対側の角には中久本店の見世蔵が建っています。安政6年(1858年)の大火の後に防火のために建てられたものです。隣には問屋場がありました。

f:id:mame-lantern:20200105220551j:plain

 

 本町宿からすぐに番場宿に入ります。右手には番場公園があります。

f:id:mame-lantern:20200801103449j:plain

 

 その先右手には、片町の石碑が立っています。このあたりの街道の南側は高安寺の境内で、北側にしか町並みがなかったため片町と呼ばれていました。
片町の石碑の道を隔て反対側には、弁慶坂の石碑があります。高安寺の弁慶の謂れに基づいています。坂道と言っても、信号機のある交差点に向けてわずかに下っています。

f:id:mame-lantern:20200107211639j:plain

 

 さらに、その先右手には棒屋の坂の説明板があります。坂を下り切ったところに棒屋という家があったことから名前がつけられました。今度は緩やかな上り坂になっています。下の写真は振り返って見ました。

 府中市はこのようにかつての町の名前や坂の名前の謂れなどの説明板を整備しています。町全体で街道筋の歴史に興味を持とういう姿勢が表れていて大変良いことです。

f:id:mame-lantern:20200107212927j:plain

 

 すぐに京王線の踏切を渡ります。左手には分倍河原駅があります。立ち寄りませんでしたが、分倍河原の駅前には新田義貞の像が立っています。1333年、新田義貞の鎌倉攻めに対し、鎌倉幕府軍とこの地、分倍河原で合戦がありました。古戦場はさらに南へ行ったところにあるようです。

f:id:mame-lantern:20200107213928j:plain

 

 踏切を越えると、街路樹の並ぶ静かな道となります。

f:id:mame-lantern:20200801103850j:plain

 

 美好町三丁目西交差点の先には府中宿本陣の表門が移築されています。

f:id:mame-lantern:20200107214929j:plain

 

 

甲州街道(3)調布から日野 その2へ続きます。

 

甲州街道 歩いた行程表はこちら