2012年12月29日
大宮宿
8:40に大宮駅に到着しました。
今日の予報はもともと雨でしたが、天気の周期が早まったのか晴に変わっていたので、急遽、街道歩きを行うことにしました。
雨上がりの大宮駅、師走も終わりですが、思ったほどは寒くありません。
しばらくビル街を歩きます。北の空はまだ鉛色の雲に覆われています。
大宮はやはりアルディージャですね。
しばらく歩いたJA共済埼玉ビルの先に大きな椎の木が2本、青々とした葉っぱを広げています。土手町の椎の木と呼ばれています。樹齢はどのくらいなのでしょうか。
右手に大宮郵便局を見ながら、交差点を越えた左手のファミレスの一角に大山道標と説明板が立っています。安政7年の道しるべと呼ばれています。
安政7年(1860年)に建てられたもので、この地から西へ向かう道があり、「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越道」と刻まれているようです。御嶽山は青梅の御嶽山、引又は志木のことです。
さらに、新幹線の高架をくぐり、国道17号を横断します。
さすが、大宮は交通の要所ですね。
創建の年代は不明ですが、京都の上加茂神社を勧請した神社です。江戸の頃はこのあたりの鎮守だったそうです。
雨あがりの参道は気持ちのいいものです。
天気が回復してきました。
正式には馬喰新田の寛政十二年銘庚申塔と呼ばれ、上尾市の有形民俗文化財に指定されています。左手に分かれる道は川越に通じていたそうです。
上尾陸橋交差点を過ぎて愛宕町に入ると上尾宿までもう少しです。
このあたりに上尾の一里塚があったようです。日本橋から数えて8里目の一里塚です。
上尾宿
上尾小学校入口交差点の先、右手駐車場奥のブロック塀には井上脇本陣の鬼瓦が埋め込まれています。古い遺構が消えていくのは残念なことですが、なかなか良い演出です。
寛永9年(1632年)創建と伝えられ、地元ではお鍬さまの愛称で呼ばれています。
このあたりが上尾宿の中心地で、本陣・脇本陣がありましたが、今はその遺構は残っていません。
下の写真は氷川鍬神社から大宮宿方面に向かって、本陣や脇本陣があった付近を撮ったものです。
上尾駅を過ぎても市街地が続きます。
緑丘地下横断道交差点の右角には中山道上尾宿平成の道標の石碑と説明板があります。
このあたりに上尾宿の京側の入口がありました。
説明板の上には鍾馗さんがいます。厄除けとして飾られています。昔は多くの民家の屋根に見られたそうです。
上尾駅前から歩いて30分、北上尾駅の先の右手には大きな屋敷林を持つお宅があります。
街道は桶川市に入ります。
桶川宿
しばらく歩いた右手の路地に入る角には、桶川宿木戸跡碑が立っています。江戸側の入口でした。
桶川宿が始まります。
その先左手には旅館の看板を掲げている武村旅館があります。
宿場町当時の旅籠の姿を今にとどめる貴重な建物だそうです。国の登録有形文化財に指定されています。ちなみにこの建物には宿泊できないそうです。
桶川駅前交差点の先の右手には島村老茶舗のお店があります。昭和初期の建物だそうです。趣のある看板が架かっています。
島村老茶舗の手前の路地を入ると、重厚な三階建てのお助け蔵があります。
天保7年(1836年)、天保の大飢饉で苦しむ人々に普請賃金を支払うために建てられました。この建物も国の登録有形文化財に指定されています。
月一回公開されているとのことです。中の様子がどうなっているか、すごく興味があります。
中山道に戻り、島村老茶舗の先、右手の重厚な見世蔵は矢部家住宅です。矢部家は穀物問屋を営んでいました。明治初期の建物だそうです。見ごたえがあります。
矢部家住宅の向かいには、旧旅籠の小林家住宅があります。こちらは江戸の終わりから明治の初めに建てられたものだそうです。
小林家住宅の道を隔てたすぐの右手には本陣跡があります。入口には冠木門が立っていて、その脇に桶川宿本陣遺構の碑と説明板があります。
加賀前田家の宿所となっていました。また、和宮も宿泊しました。
上段の間などが残っていますが一般の民家のため公開はされていません。
本陣跡の先左手には、桶川宿碑と説明板があります。トイレもあり、休憩スペースとなっています。
その先、北一丁目歩道橋をくぐります。歩道橋の左側の支柱には桶川の一里塚の説明文が巻き付けられています。日本橋から数えて10里目の一里塚です。
桶川市役所入口交差点の手前、右手に木戸跡の石碑が立っています。京側の入口でした。
また、後ろの民家には説明文が貼られています。桶川宿の木戸は和宮の通行に合わせて建て替えられたそうです。