2013年1月2日
吹上間の宿
中山道は高崎線に遮られてしまっているので、榛名通りの跨線橋を渡ります。
跨線橋から中山道方面を臨むと、線路で遮られているのがよく分かります。下の写真では右下からの中山道が線路の向こうで、その先の道に繋がっています。
その先の消防団の角を右に入ると榎戸堰があります。江戸時代から、元荒川の水を農業用地に引き込むための堰がありました。現在はコンクリートの堰になっています。公園が併設されています。
中山道に戻るとすぐに荒川の土手に突き当たります。その袂には権八地蔵があります。
鳥取藩士の白井権八がこの地で辻斬りを行った際に、それを見ていたお地蔵様に権八が「他言するな」と話しかけたところ、「われは言わぬが、ぬしも言うな」と返したという謂れがあります。
突き当りを右に曲がり、土手の上に上がります。
ここから2.5kmほど荒川の土手を歩きます。概ね昔の中山道と同じ道になっているそうです。
今日は風もなく気持ち良く歩けます。ウォーキングをしている人、自転車に乗っている人に出会います。冬型の気圧配置が強まると、ここは風の通り道になってしまうのでしょうね。
左手の河川敷はとにかく広く、田んぼや原っぱは見えますが、荒川の流れはここから見えません。
この土手はスーパー堤防と呼ばれ、近隣の町を洪水から守るために強固なものに造り変えられています。
土手道の右手には、決壊の碑が立っています。
昭和22年(1947年)9月にカスリーン台風がやってきた際、このあたりの土手が決壊して、東京まで濁流が押し寄せました。
右手の土手下のマンションの脇に一里塚跡があります。一旦、土手を下ってみました。稲荷神社の中に説明板があります。久下の一里塚です。日本橋から数えて15里目の一里塚です。
再び、土手を上り中山道に戻ります。
その先、右手下に介護老人施設が見える辺りで土手道から下る道に入ります。
やがて久下地区に入ります。久下神社の前を通ります。
このあたりでは、比較的大きなお宅を見ることができます。江戸時代に荒川を利用した江戸との船運で栄えた場所だそうです。
途中で久下橋の下をくぐり、土手を下ってから20分弱、道は二手に分かれます。車道は大きく右へ曲がりますが、中山道は直進の道です。
再び土手道に上がります。ここにも権八地蔵があります。
土手に上がると、久下の渡しと冠水橋の碑と説明板があります。ここには最近まで水位が上がると冠水する冠水橋がありました。
明治以降、荒川を渡る久下の渡しがありましたが、昭和30年(1955年)に冠水橋が造られました。しかしながら、平成15年(2003年)に新久下橋が完成するとともにその役目を終えました。
冠水橋があったあたりを眺めてみます。ここからは川の流れを見ることができます。
春はまだまだ先ですが、陽の光は眩しく感じられます。
土手に上がったばかりですが、すぐに土手を下ります。これで土手歩きは終わりです。
坂を下った先の右手、民家の塀の上にみかりや跡の説明板があります。往時はここに柚餅子(ゆべし)を振る舞う茶屋があり、忍藩の殿様が鷹狩りの際に良く立ち寄って休憩されたことから「御狩屋(みかりや)」と呼ばれるようになりました。
冠水橋から15分で元荒川を渡ります。元荒川といっても小川なのですが、水はとても澄んでいます。近くに水源があるようです。
橋の袂には、ムサシトミヨについての説明板があります。ムサシトミヨとは、このあたりの元荒川にしか棲んでいない淡水魚です。きれいな水を好むため絶滅の危機に晒されているそうです。このため、埼玉県の天然記念物に指定されています。近くに保護センターもあります。
元荒川通りの交差点を過ぎます。静かな住宅街です。
しばらく歩くと、右手に曙公園があります。その中に八丁の一里塚の説明板が立っています。日本橋から数えて16里目の一里塚です。
池田英泉は「八丁堤の景」でこのあたりの風景を描いています。
中山道は右にカーブして、秩父鉄道の踏切を渡り、上越新幹線の高架をくぐり、高崎線の踏切を渡ります。熊谷駅のすぐ脇です。
熊谷宿
高崎線の踏切を越えて道なりに真っ直ぐ進みます。
5分ほど歩くと国道17号に突き当たるので左折します。銀座一丁目交差点です。
次の交差点は筑波交差点です。左手奥が熊谷駅です。本日の街道歩きはここまでとして車を止めていた市営駐車場へ向かいます。時刻は12:55。3時間45分の行程でした。