2020年1月25日
八王子宿
国道20号に入るとすぐの右手に市守神社があります。天正18年(1590年)八王子城が陥落した際に、八王子の町は現在の地に移されました。やがて横山宿では四の日、八日市宿では八の日に市が開かれるようになり、市守神社は市の取引の平穏無事や人々の幸せを願って創建されました。
このあたりに八王子宿の江戸側入口がありました。
駅入口交差点の先は横山町です。八王子宿は15宿から成り、その中でも横山宿は一番の賑わいを見せていました。この辺りには本陣や脇本陣がありましたが、今はその跡は何もありません。
八王子駅入口交差点から歩いて10分ほどで八日市宿の碑が立っています。ここ八日市宿も横山宿と並んで八王子宿の中心となっていました。
やっと陽が差してきました。でも一瞬でした。
八幡町に入ります。かつての八幡宿です。重厚な蔵造りの商家が建っています。
その先、八木町に入ります。ここはかつての八木宿です。
八王子駅入口交差点から30分くらい歩き、追分交差点に到着します。正面左手の道が甲州街道で右の道は陣馬街道です。陣馬街道は陣馬山脇の和田峠を越えて相模湖畔の藤野まで通じている甲州街道の脇街道です。
交差点を渡るために歩道橋に上りました。
陣馬街道側に少し入った分岐の角に八王子千人同心屋敷跡碑が立っています。
豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡した後に徳川家康が関東を支配することになりましたが、その際、家康に仕えていた武田氏旧臣が甲州口の国境を警備するようなりました。元々は9人の頭に250人の同心で構成されていましたが、関ケ原の戦いの前には1,000人規模に増員されて、国境警備、八王子の治安維持に当たりました。
10名の千人頭は旗本の身分で、このあたりに屋敷を拝領していましたが、同心は半士半農の身分で多摩地区各地に住んでいました。
江戸時代に入ると、日光火の番が命じられ、交代で東照宮の警備や防火を担うようになり、幕末まで続きました。
交差点まで戻り、甲州街道に入ったすぐの歩道脇には追分道標が立っています。
「左 甲州道中高尾小道 右 あんげ道」と刻まれています。あんげ道(案下道)とは陣馬街道のことです。
この道標は昭和20年(1945年)の空襲で壊れてしまい、不明になった部分は新たに付け足して復元したものです。
ちなみに、私が日光千人同心街道を歩いた際、2014年12月にここを通りましたが、この道標を探しても見つかりませんでした。歩道が工事中でどこかへ移したのかと思っていましたが、こんなところにあったとは。。。
再び、立派なイチョウ並木が始まります。昭和2年(1927年)に多摩御陵造営の記念に植えられたものです。黄色に色づく時期は見事でしょうね。
追分交差点から15分歩くと長房団地入口交差点に着きます。ここを右折します。
すぐの交差点を左折します。桝形の跡だそうです。
交差点の角には大きな道標が立っています。
「右 高尾山道 左 真覺寺道」と刻まれています。真覚寺はこの先、線路隔てた南側にあります。
桝形を左に曲がると静かな旧道歩きになります。
すぐに元の国道に出るので、再び国道を歩きます。
国道を歩いて10分ほど、左手八王子市役所横山事務所の敷地内にオオツクバネガシの大木が立っています。
オオツクバネガシはツクバネガシとアカガシの雑種で高尾山で発見されたものです。目通りは3.1m、高さは18m以上で八王子市の天然記念物に指定されています。
また、この近辺に散田の一里塚がありました。日本橋から数えて12里目の一里塚です。ここは一里塚ではないようです。
さらに、イチョウ並木は続きます。
その先、右手には多摩御陵へ通じる参道入口があります。ここから1kmほどの所にあります。
多摩御陵入口交差点からすぐのところで、甲州街道は右に入ります。分岐の角には手書きの木製の甲州街道道標があります。
ブロックを敷き詰めた道です。なんとなく街道の雰囲気が出ています。
10分ほどで高尾街道に突き当たりますが、中央分離帯があるため直進できません。左手すぐの国道との交差点を渡ることもできますが、右手の橋の下をくぐってみました。
右手の橋の下をくぐり、先ほど歩いた旧道の先に繋がるところまで戻り、右折します。
しかし、すぐに国道と合流してしまいます。
そして高尾駅前交差点に到着しました。本日の街道歩きはここまでとして、左折して高尾駅へ向かいます。
高尾駅に到着したのは11:40です。本日は3時間15分の行程でした。今日は残念ながら天気予報の晴れにはなりませんでした。
次回は小仏峠越えとなるので、花粉が治まり暖かくなってから再開します。