2013年11月23日
中山道原道
笠取峠から下るとカラマツ林が茶黄色に紅葉していて青空に鮮やかに映えます。すぐのところで、国道142号と旧国道の分岐点に出ます。
分岐には「中山道原道」の標識が立っています。国道と旧国道の間を下っていく草道が旧中山道です。
標識脇を下っていきます。
落ち葉の草道を歩いていきます。
やがて旧国道に出るので、左折して旧道に入ります。
旧道に出た正面には大きな枝垂桜の木が立っています。枝垂桜という表記のみの説明板がありますが、何か謂れがあるのでしょうか。
すぐに二手に分かれますが、旧国道を道なりに右へ進みます。ここにも中山道の標識があります。中山道の標識がいたるところにあるので迷わず歩けます。
その先にガードレールの切れ目があり、ここから入るように中山道原道の標識があります。
再び山道を下ります。
そして、再び旧国道に出ます。その脇にも中山道笠取峠原道の標識が立っています。
落ち葉を踏みしめながら気持ちの良い旧道歩きでした。結局、人にも熊にも出会いませんでした。
紅葉の中、景色を眺めながら車の通らない旧国道を歩いていくと、今度は国道本線に出ます。
右折してしばらく国道の歩道を歩きます。
その先、再び旧国道との分岐があるので、右手の旧道に入ります。
旧国道を歩くこと5分、右へ大きくカーブすると人家が見えてきます。そしてガードレールの切れ目に再び中山道の標識があります。原道と書かれていたので、まだ原道が続いているようです。
ガードレールから斜めに下る道ではなく、垂直に下る道を進みます。すぐに舗装道路に出ます。
舗装道路を右に曲がるとすぐに、先ほどの旧国道に出ます。民家が点在する中を進むと、再び、ガードレールの切れ目から下るように標識が示しています。
急な坂を下ると、松尾神社の境内に出ます。松尾神社は酒造りの神様を祀っています。
長久保宿
境内から五十鈴川を渡り、鳥居をくぐるとその先は長久保宿の堅町です。直線の道が続きます。
松尾神社から5分ほどで、左手に一福処濱屋が建っています。この建屋は明治初期に旅籠として建てられましたが、交通量の激減で開業には至らなかったそうです。現在は長久保宿歴史資料館になっています。
濱屋の先の右手には旧本陣石合家住宅があります。御殿と表門が残っています。御殿の築年は正式には不明ですが、17世紀後半と推定されていて、中山道では現存する最古の遺構と言われています。表門は幕末に建てられたものです。
戦国時代、真田幸村の娘がここ石合家に嫁いでいます。
表門の脇には高札場が復元されています。
本陣の先、道を隔てた反対側には脇本陣跡の標柱が立っていますが、その遺構はありません。
そのはす向かいには釜鳴屋があります。江戸時代から、酒造りや醤油醸造を営んでいました。寛延2年(1731年)以前の建築と推定され、長野県内では最も古い町屋建築と言われています。
笠取峠下のタイル絵にあった笠取峠立場図の版木が保管されていました。
道はその先でT字路に突き当たります。中山道はここを左へ曲がり横町に入ります。かつての桝形があったところです。
長久保宿は東には笠取峠、西には和田峠を控え、また、北へは北国街道へ通じ、南へは大門街道が通り、交通の要所でもありました。このため、旅籠が50軒を数える大きな宿場町でした。宿場町は堅町から横町に拡張されていき、横町には特に旅籠が多かったそうです。
横町に入った左手には旧旅籠の辰野屋があります。江戸末期の建物です。結構間口を広く取っています。
その先で京側の桝形に沿って右に入る予定でしたが、そのまま直進してしまいました。長久保横町の交差点で国道142号に入ります。
大石団地入口バス停の脇に立つと、依田川沿いに広がる田んぼを見渡すことができます。中山道が制定されたとき、長久保宿はこの依田川沿いにありましたが、寛永8年(1631年)に起きた洪水で現在の段丘上に移されました。
しばらくすると、右からの国道152号と合流します。歩道のない国道歩きになります。
「四泊落合 標高680m」の標識のあるところから右に入ります。
分岐点には四泊の一里塚の説明板があります。日本橋から数えて48里目の一里塚です。
その脇には中山道の標識が立っています。この先、長和町ではこの青い標識がいたるところで案内してくれます。
しばらく砂利道を歩くと国道に合流し、再び国道歩きとなります。