2015 年10月31日
出尻の一里塚
上田口交差点から国道19号を歩いて数分で、右手歩道の脇に一里塚碑が立っています。出尻の一里塚です。日本橋から数えて69里目の一里塚です。
ふと思いましたが、ここまでこういった石碑の一里塚跡をいくつ見てきたのでしょうか。木曽路といえども一里塚は残っていないようです。やはりこの山あいの中、中山道が国道や県道に置き換わったところは、取り壊されてしまったということですかね。
中山道は標識に従って一里塚碑の脇から草道を下っていきます。すぐに下の舗装道路に出ます。ここも標識に従って左折します。
しばらく、国道下の道を歩いていくと、車止めのある国道へ上がる道があるのでここを上っていきます。
再び国道歩きになります。陽の光が黒い雲に遮られ、結構寒くなってきました。福島の町までもう少しです。
国道を歩いて10分弱、矢崎交差点の先、右手にあるそば処くるまやの先で中山道は右の道に入ります。
すぐに国道361号の木曽大橋の下をくぐります。
その先のT字路を左折して道なりに進むと、再び国道19号に出ます。国道はすぐの関町交差点からトンネルに入ります。脇を木曽川が流れています。
関町交差点からトンネルに入らず、右に進むのが福島方面です。
かなりの高台に出ました。町並みが一望できます。北のほうの空は相変わらず晴れていますが、すでに陽は傾いてきています。
その先には冠木門の大きなゲートが 道路を跨いでいます。いよいよ福島の関所です。
福島宿
福島関所跡は左の坂を上がっていきます。福島関所が福島宿の入口でした。
福島関所は明治になって取り壊されてしまったため遺構は残っていませんが、史跡として整備されています。番所の東西には関所門がありました。
福島関所は中山道碓氷関所や東海道箱根関所、新居関所とともに天下の四大関所と言われていました。中山道設置から明治に入るまで代官の山村氏が関守りに当たっていました。昭和50年(1975年)に発掘調査が行われ、その全容が明らかになりました。現在は国の史跡に指定されています。
その先は福島関所資料館があります。右手は断崖絶壁になっています。当時はすぐ下を木曽川が流れていたのでしょう。
その隣の高瀬家資料館の前から、下に続く階段を降りていきます。結構急な階段で折り返して下ります。すぐ下には福島の町並みが広がっています。
通りに出ます。中山道は直進方向ですが、上町交差点を右折します。すぐの中央橋で木曽川を渡ります。もともと江戸時代には橋がなく明治35年(1902年)に上町の有志が私財を投じて新たに橋を架けました。
陽が差してきました。
その先、木曽町駐車場の前を左折して福島小学校へ向かいます。小学校の道路脇の石垣には山村代官屋敷東門当時の石積みが残っています。この石には尾張徳川家の家臣横井也有(やゆう)の紀行文「岐岨路紀行」の一節が刻まれています。延享4年(1747年)の改修時に刻まれ現在まで残っています。
その先には山村代官屋敷跡があります。現存しているのは下屋敷や庭園の一部だそうです。
山村氏は木曽義元の重臣を務め、関ケ原の戦いでは徳川秀忠の先陣を受け持ち功労を立てました。そのため徳川家が木曽谷の直轄支配を始めるとともに代官となり、それ以降明治2年(1869年)まで木曽谷を支配し、関所を守ってきました。
代官屋敷前から南へ向かって中山道に戻ります。大手橋で木曽川を渡ります。優雅な曲線を持つアーチ橋です。
江戸時代、大手橋は御屋敷前橋と呼ばれていましたが、明治になって大手橋に名前が変わりました。現在の橋は昭和11年(1936年)に世界初のコンクリートローゼ橋に架け替えられました。土木学会推奨土木遺産に指定されています。
木曽川の流れです。下流方面を見ています。朝に吉田橋から見た流れと比べると、だいぶ水量が増えています。
その先、支所前交差点を右折して中山道に戻ります。
交差点の正面はかつて福島宿本陣があった場所です。
中山道に入って、すぐの左手には七笑酒造があります。とても良い名前です。
その先、中山道は薬局の角を左に入ります。
道なりに右に曲がって、坂道を上ります。
坂道の途中には高札場が復元されています。天保9年(1838年)当時の札を再現して掛けています。
高札場の脇には水場があり勢いよく流れています。
道なりに左へ曲がると上の段に出ます。昔ながらの町並みが現れます。
高台にあるのですが水場があります。
路地もいい感じです。
その先、桝形を左へ曲がり、右に曲がって坂を下っていきます。
中八橋を渡り、車通りを右折します。どことなく懐かしさを感じる町並みです。
その先、道なりに坂を上っていくと木曽福島駅に到着します。時刻は15:30。4時間ちょうどの行程でした。
15:35発の電車にぎりぎり間に合い、塩尻経由で帰路に着きました。