2015年11月21日
木曽の桟
国道19号から右折して赤い橋を渡ります。橋の名前は「かけはし」です。
橋の途中から今歩いてきた国道を振り返ると、国道下に石積みを見ることができます。木曽の桟の跡です。かつてこの辺りは、木曽川の造る断崖絶壁が続き、中山道の難所のひとつでした。初めは丸太で作った桟道でしたが、江戸時代に通行人の松明で焼け落ちてしまい、慶安元年(1648年)に尾張藩が石を積み上げた桟を完成させました。今でもこのように石積みを見ることができます。
今の木曽川の流れはゆるやかです。
中山道をトレースするには、国道19号に戻り先を歩けば良いのですが、その先、歩道もなく歩くには危険な箇所があるようです。バイブルではかけはしを渡り、木曽川の右岸(西側)へ迂回するように書かれています。しかしながら、今はバイパスができているので国道といえども車の通りは少ないかなあと一瞬思いましたが、先ほどのような思いはしたくないので迂回道を選びました。
赤い橋を渡ると突き当りの小スペースに、木曽の桟の説明板、句碑、明治天皇の碑、馬頭観世音などが並んでいます。芭蕉の句碑には、
「桟や命をからむ蔦かつら」
という句が刻まれています。必死の思いが伝わってきます。
馬頭観世音の脇から草道を上がると上を通る県道に出るので、左折して上松宿を目指します。ほとんど車の通らない道です。
左手には木曽川を見下ろすことができます。振り返ると桟とかけはしを見ることができます。
木曽川の流れです。ここは開けたところを流れています。
遠くに木曽駒ケ岳でしょうか。中央アルプスあたりの山が見えます。
右岸の道路を歩いて20分弱でバイパスの下をくぐります。川の向こうには上松の町並みが見えてきます。
バイパスをくぐって7分、赤い橋で木曽川を渡ります。車道の橋の隣に小さな橋が並んでいます。この小さいほうの橋は旧木曽森林鉄道の鬼淵鉄橋です。この橋は通行できませんが、大きい橋を渡ったところに説明板が立っています。大正3年(1914年)に造られた日本最古の日本製鉄橋とのことです。昭和50年(1975年)まで使われていました。
その先、ループ橋下のT字路の手前で左へ入ります。
道なりに進んで、中央本線の線路の下をくぐると国道19号に出ます。右折して中山道に戻ると十王橋交差点です。
交差点を左折するとすぐの右手が上松宿の入口になります。十王沢川を渡ります。
上松宿
橋を渡り桝形を左へ折れると上松宿に入ります。この辺りは趣きのあるお宅が残っています。
町のあちらこちらに「祝 新入幕 御嶽海」の看板が立っています。御嶽海はここ上松町の出身です。
左手歯科医院があるところが本陣跡です。
その先右に曲がる左手角に本町の一里塚碑が立っています。日本橋から数えて72里目の一里塚です。
桝形に沿って左に曲がります。
広小路交差点の右手奥は上松駅です。上松はヒノキの町です。駅前にはヒノキの木でしょうか柱が立っています。
中山道に戻り、歩道橋の手前、左脇の坂道を上がります。
木曽川が造った河岸段丘上へ上る坂だと思いますが、寺坂と呼ばれています。結構急です。
高台を通る車道に出ます。眼下には上松の町並みが一望できます。
住宅地の中、南へ歩いていくと、上松小学校の前を通ります。道路脇には尾張藩材木役所御陣屋跡の石碑と説明板が立っています。寛文3年(1663年)から4年にかけて尾張藩が木曽総山の検見を行ったところ、山々が荒れてしまっていたことに驚き、山の業務を山村代官から取り上げて直轄の役所を設けました。
さらにその先には鳥居が立っています。諏訪神社の鳥居です。
珍しいことに、本殿は小学校のグランドの向こうにあります。
諏訪神社は諏訪から直接来たのではなく、京都から勧請したもので御柱は立てはいないそうです。
その脇に立つもみじが緑、黄、オレンジ、赤とグラデーションがかかりとてもきれいです。
坂道を下って突き当りを左折します。小学校から歩いて10分弱で国道19号がトンネルから出る上の高台に立ちます。
さらに5分ほど歩くと、右手にはたせやと越前屋の趣のある建物が建っています。赤いポストがアクセントを付けています。
たせやと越前屋の間を右に入って寝覚ノ床に寄り道をします。左手は越前屋です。
右手はたせやです。
急な坂を下っていきます。