2016年10月21日
上宿の一里塚
苗木道との追分を過ぎると、右手には中津の一里塚碑が立っています。説明板には上宿の一里塚と記されています。南塚は消滅していて、北塚が復元されています。日本橋から数えて85里目の一里塚です。
駒場地区を歩きます。
一里塚碑から歩くこと10分で、小さな橋を渡るとその先は上り坂になります。ここも結構急な坂道です。
急坂を上り切った先にコンビニが見えてきます。
コンビニの脇を通ると左手には小石塚の立場跡の碑が立っています。茶屋が数軒ありました。
国道19号の脇に出ます。この先の中山道は国道19号と国道257号との交差点と、中央自動車道の中津川インターによって途切れています。
「歴史の道 中山道」の案内板の脇から階段を下ります。
階段を下りると国道19号の下をくぐる道に出るので、右方向へ歩きます。
その先、右手の国道257号と合流するところで、257号の横断歩道を渡り、右側の歩道に出ます。その先は19号の歩道になります。
しばらく国道19号の歩道を歩きます。中津川インター口バス停を過ぎると、右へ入る道が現れるのでそこを入ります。すぐ脇には中央本線の線路が走っています。
道なりにインターチェンジの誘導路のコンクリート壁際を歩いていくとT字路に出ます。中山道の標識に従って右に曲がると中山道が復活します。
千旦林(せんだんばやし)地区に入ります。
中山道に戻って5分強で右手の道路脇に六地蔵石幢が立っています。この石幢は大林寺の入口に、寺の創立24年後の明暦3年(1657年)に建立されました。街道脇に立ち、中山道を旅する人々の安全を見守っていたのでしよう。
田園風景が広がり、その先には笠置山を望むことができます。空が高く気持ちの良い歩きです。
さらに5分ほど歩くと坂本神社八幡宮の入口があります。本殿は線路を越えたかなり先にあります。ここには常夜燈、松風義校(千旦林学校)跡があります。
その先の右手には千旦林村の高札場跡の石碑が立っています。
千旦林地区をさらに歩きます。
高札場跡から5分ほど歩くと、道は二股に分かれます。中山道は左の道に入ります。右の道は、この先、中央本線の美乃坂本駅に通じています。
分岐には道標が立っていて、中山道方面が旧国道、直進方面が国道であることを示しています。
さらに道幅が狭くなりのどかな街道歩きとなります。傍らには柿の実がいっぱいなっています。
道は緩やかな坂を上ると下り坂に変わり、二股から10分ほど歩くと、右手には将監塚の説明板が立っています。二代目美濃代官を務めた岡田将監善同の墓があったと記されています。
さらにその先、街道から奥まったところに三ツ家の一里塚碑が立っています。日本橋から数えて86里目の一里塚です。
一里塚の先、さほど交通量の多くない道と交差します。歩行者用に地下道が設けられています。今後、幹線道路になるのかもしれません。
柿の実が実り、キバナコスモスが咲いていて、秋を感じさせます。そういえば、柿は岐阜県の特産品だった記憶があります。
その先は坂道を上ります。
坂道を上り切った所で市道を横断します。その右角には坂本立場跡の石碑が立っています。ここは千旦林村と茄子川村の境でした。
立場跡からは下り坂です。坂本川に向かって一気に下ります。
平地に出ると坂本川に突き当たります。少しだけ左へ歩き、坂本橋を渡ります。
茄子川地区に入ります。街道の雰囲気を残す静かな通りです。
坂本橋を渡って15分弱で、交差点左手角には茄子川村の高札場跡の石碑が立っています。かつての茄子川村の入口でした。
その先、右手には尾州白木改番所碑が立っています。これだけ各所に番所を設けていることから、尾張藩では木曽木材の持ち出しの監視をかなり厳しく行っていたことがよく分かります。
左手には茄子川茶屋本陣跡があります。茄子川は中津川宿と大井宿の中間に位置し、間の宿でした。当主の篠原家は代々村役人、庄屋を務めており、休泊所として本陣や脇本陣の役割も担っていました。和宮や明治天皇が休憩した建屋がそのまま残されています。
茶屋本陣の先のT字路を左に入る道の両脇には秋葉山常夜燈が立っています。この左へ入る道は秋葉道と呼ばれ遠州秋葉山へ通じる道となっています。
秋葉山は火伏の神様を祀る神社の大本山で、江戸時代には秋葉詣でが盛んに行われるようになりました。秋葉道は東海道側からも含め何本もあります。
広々としたところに出たので写真を一枚。
さらに茄子川地区を歩きます。