2016年10月22日
大井宿
朝、土岐市駅から電車に乗り込むと、車内ではハイキングスタイルの人が大勢乗っていました。途中、武並駅で「JRさわやかウォークに参加の人はこの駅で降りてください」という車内放送があり、そのハイキングスタイルの人達はみな降りてしまいました。どこを歩くのだろうと思いつつ、次の恵那駅に8:20過ぎに到着しました。
天気は晴、気温は昨日同様、20℃くらいでしょうか。駅の売店でおにぎりと水を仕入れ、8:30から歩き始めました。今日の街道は、途中、コンビニどころか自動販売機すらないようです。
駅前通りを歩くとすぐに、本日のスタート地点の中央通一丁目交差点に着きます。右折して中山道に入ります。
中山道は道幅が狭く、中津川宿に似た雰囲気を持っています。今日はイベントがあるのか、いくつかの空きスペースで催し物の準備が進められていました。
その先の休憩所のスタッフの方の話では、今日は「恵那まちなか市」というイベントがあるそうです。さらに、例のJRさわやかウォーキングが同時開催されていて、武並駅をスタートして深萱立場跡から中山道に入り、大井宿でまちなか市を楽しむことになっているそうです。参加者は400~500人とのことで、これだけの人がこの先ですれ違うことになるよという話しでした。
中山道に入って10分くらいで、左手には中野村庄屋の家が立っています。 屋号は本酒屋と言い立派な門があります。
文久元年(1861年)、和宮の行列が通過する際に、岩村藩代官は大湫宿の助郷村である野井村にまかない役を強要しました。行列の通過後、ここ中野村庄屋に宿泊していた岩村藩代官に対して、不満を募らせた村人が切りつけたという事件が起こりました。
庄屋の家の塀の先には浸水防止壁跡があります。かつて、田違川はすぐの長島(おさじま)橋近くで永田川と合流していたため、このあたりは洪水のたびに浸水していました。このため道に木の板を渡し浸水を防ぎました。
長島橋で永田川を渡ります。橋の手前には中野観音堂があり、中野村の高札場もありました。
長島橋の先で信号のある交差点に出るので左折します。
さらにその先、五差路の坂の上交差点で県道を横断して直進します。道路標識の多治見方面です。
交差点から5分ほど歩くと右手には常夜燈を模した中山道の石碑が立っています。
新田バス停の先、左手には西行硯水公園があります。歌人西行はこの地で3年間過ごしたといわれ、多くの歌を残しました。ここの泉から湧く水で墨をすったと伝えられています。大井は西行ゆかりの地です。
その先、上り車線と下り車線が分かれる手前で右の坂道に入ります。
その角には西行塚道標があり、「西行塚 西三丁」と記されています。また裏手の小スペースは西行公園と呼ばれていて、休憩所や中野村の石碑があります。
坂道を上がるとすぐに中央本線の踏切を越えます。その手前右手には歴史の道中山道と大井宿の説明石碑があります。
「中仙道」踏切を越えてすぐを左に入ります。
田園風景が見渡せるのどかな道を進み、道なりに田違川を渡ると中央自動車道の下をくぐります。
中央自動車道の高架をくぐると、さらに、道なりに左に曲がって高速道路脇の坂道を上っていきます。
そして、踏切を渡って5分、側道から右へ入る石畳の坂道に入ります。分岐には「是より西 十三峠」と記されています。ここから十三峠のアップダウンが始まります。
しばらく坂道(西行坂)を上ると西行苑と呼ばれる公園があります。少し街道から入ったところには西行塚があります。
西行は、定説では平安末期の文治6年(1190年)に河内の国で亡くなったと言われていますが、各地で様々な伝説が残り、終焉地も十を下らないそうです。各地を行脚して、その歌に多くの人が共感し、憧れをもったからと言われています。
石畳はなくなりますが、上り坂は続きます。このあたりの坂は七本松坂と呼ばれています。
ぽつぽつとハイカー とすれ違うようになります。さわやかウォーキングに参加している人でしょうか。
やがて明るい尾根道に変わります。
尾根道の先には槇ヶ根の一里塚跡があります。両塚とも現存しています。北塚には石碑と説明板が立っています。日本橋から数えて、88里目の一里塚です。
南塚です。また、すぐのところには駐車場と休憩場があります。
一里塚のあるあたりは南側が開けた場所にあります。
しばらく南側の眺めの良い尾根道を歩きます。南側一帯は西行の森と呼ばれ桜の名所になっています。桜百選の園と刻まれた大きな石碑が立っています。ここにはおおよそ100種類の桜が植えられています。
この辺りまで来ると、次々に反対側から歩いてくる人とすれ違います。
石碑の先で十字路横断して、坂道を上ると舗装道路に突き当たるので左折します。
センターラインのある車道を緩やかに下ります。槇ヶ根坂と呼ばれています。
すぐの左手には茶屋水戸屋跡の標柱が立っています。
その先、緩やかに下る車道から、右手のセントラル建設の前の砂利道に入ります。
砂利道から上り坂となり、すぐに山の中に入ります。しばらく歩くと槇ヶ根立場跡の説明板が立っています。この地は中山道と伊勢神宮へ通じる下街道との追分(槇ヶ根追分)になっていました。9軒の茶屋が立っていて、大変賑わっていたそうです。
また、伊勢神宮遥拝所の説明板が立っています。文化2年(1805年)に書かれた「木曽名所図会」では槇ヶ根立場の挿絵にそれらしき小社が示されていて、それが、ここにある遺構にあたると考えられています。伊勢神宮参拝の旅人は、槇ヶ根追分から下街道へ入りましたが、お金や時間のない人はここで遥拝したと言われています。
槇ヶ根追分道標が立っています。「右 西京大阪道 左 伊勢名古屋道」と刻まれています。またその上には鳥居の絵と大神宮という文字が記されています。明治8年(1875年)に建てられました。
そして、槇ヶ根追分です。名古屋へ抜けるには、この先の中山道の上街道より下街道を利用した方が4里半ほど近かったため、一般旅行者に加え、商人や伊勢神宮の参拝者も多く利用していました。しかし、幕府は中山道の宿場保護のため、下街道の商人荷の通行を禁止しましたが、なかなか徹底はできなかったようです。
追分から10分弱、緩やかな坂を下ります。祝坂と呼ばれています。
その先で、街道から右手に上る小路に入ります。姫御殿跡に立ち寄ります。