2017年4月28日
大湫宿京口
2017年の中山道の歩き始めです。今回は1泊2日で鵜沼宿あたりまで歩く予定です。 今日は今年から制定されたプレミアムフライデー、朝6時過ぎの東京駅発のぞみに乗り込んで、名古屋回りで中央本線釜戸駅に9:00に到着しました。天気は快晴、終日安定する予報になっています。気温は20℃くらいで気持ちのよい気候になりました。本日のスタート地点である大湫宿京口にある高札場跡までタクシーで向かいました。
釜戸駅から急な山道をタクシーで上ること15分でスタート地点に到着しました。下の写真の左手が釜戸駅方面、正面が本日歩く中山道です。タクシーを呼んでもしばらく来なかったりして、結局、歩き始めは9:40になりました。
すぐの左手には小坂の馬頭様が祀られています。二つの自然石の上にそれぞれ仲良く乗っています。
山桜でしょうか、満開です。ここだけではなく、あちらこちらで目にします。
こちらはツツジの花です。
その先には「大湫の二つ岩」と言われている花崗岩の巨岩が二つ並んでいます。安藤広重の画にも描かれています。手前が母衣岩、奥が烏帽子岩と名付けられています。
下の写真は母衣岩で奥に小さく烏帽子岩が写っています。
こちらは烏帽子岩です。傍らには太田南畝(蜀山人)の紀行文の一節を記した石碑が立っています。
比較的大きな大湫病院の脇を通り、その先の右手にある琵琶峠入口に入ります。
県道に沿った緩やかな石畳のスロープに入ります。右にカーブする突き当たりに「琵琶峠東上り口」と記された石碑と琵琶峠石畳の説明板が立っています。昭和45年(1970年)に500mに渡る石畳が確認されました。
石畳の道を上ります。
石畳を上り始めて10分で、あっという間に琵琶峠頂上に着きました。しかも、ここが美濃路で一番高いところで標高558mだそうです。そんな感じがしません。
頂上付近には馬頭様と和宮歌碑が立っています。
「住み慣れし 都路出でて けふいくひ いそぐとつらき 東路のたび」
気持ちは良く分かります。
下りも石畳が続きます。石畳には、切り出した当時のノミの後が残っている石もあるそうです。
すぐのところで、一里塚が見えてきます。八瀬沢の一里塚で、ここも両塚がきれいな形で現存しています。日本橋から数えて、91里目の一里塚です。南塚の前には琵琶峠の石畳と一里塚の説明板が立っています。
石畳の道を舗装道路が横切ります。舗装道路に出る手前に、左から「中山道案内図」「琵琶峠の説明板」「琵琶峠の絵図」のプレート3枚が石畳脇の苔むした自然石に固定されています。なんとなく奇妙な感じです。
その先で石畳の道は土道に変わり、さらに、民家も見えてきて、県道と合流します。ここで峠道は終わりです。
合流点の角には琵琶峠西入り口の石碑が立っています。東の入り口から20分間の峠越えでした。
この先は県道65号を歩きます。
県道に入って10分弱、たくさんの犬の鳴き声が聞こえてきます。お洒落なログハウスの犬の訓練所があります。
道端の枝垂れ桜が満開です。
さらに5分で、右手には一つ屋茶屋跡の碑がポツンと立っています。一軒の茶屋があったのでしょうか。
新緑の季節です。とても気持ちの良い街道歩きです。
新緑の林の中をさらに10分弱歩くと、焼坂の馬頭様が標柱とともに鎮座しています。崖の途中に、こちらもひっそりと祀られています。
緩やかな坂を下っていきます。天神坂の標柱が立っています。
県道に入って30分、右手街道脇には弁財天の池が広がります。丘陵地帯ではありますがいつも水をたたえていて、カキツバタやジュンサイの自生地となっているそうです。中の島には弁財天が祀られています。説明文には太田南畝の一文が紹介されています。
ここ瑞浪の旧所には、太田南畝の紀行文「壬戌紀行(じんじゅつきこう)」に記載の一文が紹介されています。太田南畝は享和元年(1801年)から翌年まで大坂銅座に支配勘定として勤務していましたが、任務を終えて江戸へ帰る途中の中山道の様子を記録に残しています。別名、蜀山人という号を使っていました。
左側は開けた丘陵地です。田植えはまだ少し先のようです。
さらに先へ進みます。ツツジも咲いています。
すぐに南垣外ハナノキ自生地碑が立つ場所に到着します。この地のハナノキは瑞浪市の天然記念物に指定されていますが、どれがハナノキなのかよく分かりません。
ハナノキは日本の固有種で、長野県・岐阜県・愛知県の県境付近に分布しています。希少種のひとつとして、絶滅の危険が増大している種(絶滅危惧2類)に指定されています。
さらに5分ほど歩くと奥之田の一里塚に着きます。こちらも両塚が残っています。写真の手前が北塚で奥が南塚です。日本橋から数えて、92里目の一里塚です。
一里塚から7分で民家が現れ、「細久手宿 この先すぐ」の標識が立っています。細久手宿はもう少しです。