2017年4月28日
津橋
津橋川に架かる津橋を渡ります。その先で変則五差路の交差点に出ます。中山道は右斜め前の坂道を上ります。
山裾の高台を歩きます。
すぐに山の中に入ります。竹林を見ながら諸の木坂を上ります。結構きつい坂道です。
坂を上り始めて12分で坂の頂上、物見峠に到着します。峠の右手には馬の水飲み場跡があります。一応、窪みに水が溜まっています。ここには5軒の茶屋もありました。
その隣は御殿場跡で、和宮が通行した際に休憩のための御殿が建てられました。
右手の階段を上がると、現代の休憩所、東屋が建っています。ここからは御嶽山も望めることができるそうです。下の写真の中央に見える山は笠置山らしいです。見晴らしの良い場所です。
物見峠から下って5分、左手に唄清水跡があります。源征重(五歩)が
「馬子唄の響きに波たつ清水かな」
と詠んだことから「唄清水」と名付けられました。馬子の唄声が山の中を響き渡る情景が浮かんで来ます。
竹林の坂道を下ります。
すぐに、やや広い車道に出るので左方向に進みます。
さらに、すぐのところを左に入ります。このあたりに十本木の立場がありました。
再び、道が細くなります。うっかりしたことに、この先で復元された謡坂(うとうさか)十本木の一里塚を見逃してしまいました。日本橋から数えて94里目の一里塚です。今日もここまで、八瀬沢、奥之田、鴨之巣と両塚が現存している一里塚を見てきました。昨日を合わせると六ヶ所連続になります。
さらに、右手には安藤広重「木曽海道六拾九次之内 御嶽」モデルの地の説明板が立っています。先人たちのブログにある昔の写真を見ると、説明板の向こうに広重の絵の木賃宿を想像させる古民家が立っていましたが、今は更地になっていてありません。
道の反対側には十本木茶屋跡の説明板も立っています。
坂を下っていくとすぐにY字路があり、左の石畳道に入ります。
石畳道の入口には車止めがあり、傍らには謡坂石畳と記された石碑が立っています。かなり急な下り坂です。江戸へ向かう旅人はこの坂道に息を切らせ、苦しさをまぎらわすために唄をうたいながら坂を上ったことから、「うたうさか」から「うとうさか」へと変わり、この地名になったと伝えられています。
この石畳は平成9年(1997年)から12年かけて整備されたものです。石の敷き方もかなり緻密に並べています。
坂を下ること5分で、石畳道は終わりになります。右手には坂の上と同じ謡坂石畳の石碑が立っています。
その先の車道を道なりに直進すると、比較的広い車道に突き当るので左折します。
車道を歩いてすぐのところで、右手に耳神社に上がる階段が見えてきます。階段の脇には説明板も立っています。耳の病にご利益があるそうで、願いごとがかなうと年の数の錐で編んだすだれを奉納するという非常に珍しい神社です。社は意外と小さいです。
その先の二股は右の細い道に入ります。傍らには道標が立っています。
さらに右手の坂道を上がります。
すぐに土道に変わり、その先は急な下りになります。西洞坂、または、牛の鼻欠け坂と呼ばれています。急な坂道で、牛や馬の鼻が擦れて欠けるほどであったことから、このように呼ばれるようになりました。
急な下り坂も2、3分で通過して、林が開けて舗装道が先に見えてきます。説明板によると、江戸方面からは、ここ牛の鼻欠け坂まで山間地域を通ってきましたが、ここから西は比較的平坦地となり、その境界線になっていると記されています。思えば坂本宿からこの地までとても長い道のりでしたが、結構楽しめた街道歩きでした。
田んぼの畦道を直進して道なりに右折して進むと、正面で車道に突き当たるので左折します。車道からこれまで延々と歩いてきた中山道の山道を振り返ります。
すぐの二股も右へ入ります。
5分ほどでセンターラインのある比較的広い車道に出るので、ここを左折します。
和泉式部の碑の案内に従って、次の十字路を右折します。
その先、道なりに直角に左へ曲がり、民家の中のT字路を右折します。
さらにその先で広い交差点を左折して進むと、国道21号に突き当たるので右折します。
国道を右折するとすぐに、右手の細い道に入るように標識があります。その先には和泉式部の廟所があります。和泉式部は平安時代の女流作家で、その廟所と伝えられています。東山道を旅していたところ、この地で病になり、鬼岩温泉で湯治をしていましたが、この地で亡くなったと言われています。石碑には、
「ひとりさえ 渡れば沈むうき橋の あとなる人はしばしとどまれ」
と記されています。
再び国道に戻り、御嶽宿を目指します。途中バイパスと別れ直進方向へ進みます。
バイパスと分かれて10分弱で、御嵩電気の角を左へ入ります。角には道標が立っています。