今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

中山道(27)美江寺から関ケ原 その3

 

2017年11月24日

 

赤坂宿

 

 しばらく歩き、赤い欄干の橋を渡ります。ここがかつての杭瀬川の主流でした。橋の手前左手には御使者場跡の石碑が立っています。大名や公家の通行の際、宿役人や名主がここで送迎をしていました。この辺りに東の木戸があり、江戸側の入口でした。同じものが宿場の西側にもあります。

 橋の先右手は赤坂港跡が公園となっています。

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 川を交通の手段としていた1900年頃、赤坂港は500艘を超える船が往来していたと言われています。この地域は古くから石灰や大理石産業が盛んな町でした。しかし、大正時代になって、鉄道が引かれるようになってから港は徐々に衰退していきました。右手の常夜灯が往時のものとして残っています。

 その隣には瀟洒な赤坂港会館が立っています。この建物は、赤坂町の中心地にあたる中山道と谷汲街道の分岐点に明治8年(1875年)に建てられた警察屯所を復元したもので、現在は資料館となっています。

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 その先で貨物線である西濃鉄道市橋線の踏切を越えます。左方向はJR美濃赤坂駅へ通じています。線路を越えた左手のすぐのところには、かつての赤坂本町駅がありました。

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 さらに、左手には本陣跡があり、公園になっていています。本陣跡碑と和宮の碑が立っています。和宮はここに宿泊しました。

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 本陣跡のはす向かいには旧清水家住宅が建っています。享保15年(1730年)に建てられたもので、米屋を営んでいました。現在は大垣市重要文化財に指定されていて休憩所となっています。

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 その先の十字路は四ツ辻と呼ばれ、東西に中山道、北へ谷汲街道、南に養老街道が交差し、交通の要所となっていました。谷汲街道は西国三十三か所の谷汲山華厳寺へ、養老街道は伊勢へつながっていました。

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 四ツ辻の右角の小スペースには道標と赤坂宿の説明板があります。道標には「左たにくみ道」「谷汲山観音夜燈」と記されています。道標の前から谷汲街道が始まります。

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 四ツ辻左手角の立派な建屋は矢橋家住宅です。矢橋家の主屋は天保4年(1833年)に建てられ、国の有形文化財に指定されています。

 養老街道に少し入って振り返ってみました。矢橋家の蔵並みが続きます。とても趣があります。

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 中山道に戻り、その先左手には脇本陣跡があります。石碑と説明板が立っています。宝暦年間より脇本陣を務め、明治になってからは旅館を営んでいます。その隣には赤坂宿の土産や案内所である五七処があります。

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 五七処の西側の壁には「徳川家康公開運の地」と書かれた看板が掛けられています。関ヶ原の合戦の際に、徳川家康が赤坂宿近くに本陣を設けたことにより、そのように呼ばれています。

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 古い商家の町並みが続きます。

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 本陣跡から所々写真を撮りながら歩いて20分強で、左手、兜塚に到着します。関ヶ原の前哨戦、「杭瀬川の戦い」で戦死した武将の鎧兜を埋葬したと言われています。

 また、赤坂宿の東側の入口にもあった御使者場跡碑がここにも立っています。このあたりが宿場の京側の入口でした。

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 昼飯町の静かな町並みを歩きます。昼飯と書いて「ひるい」と読みます。

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 京側の入口から10分で、東海道本線の高架をくぐります。

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 線路をくぐると青墓町地区に入ります。このあたりは、古墳が多く、大墓と呼ばれていたのが、青墓に変化して町名の由来になったそうです。

 すぐの水路左手脇には「史跡の里青墓町」と記された標柱が立っています。その右面には「古墳米糠山」と記されています。北側にある米糠山古墳を指します。

 何やら怪しげな雲が現れてきました。日本海からの雪雲が流れ始めたのでしょうか。

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 立派な長屋門です。

 だんだん黒い雲に覆われてきました。

 すぐの左手民家脇には照手姫水汲井戸碑が立っています。

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 さらに大谷川を渡ります。橋の手前右手には青墓宿の標柱が立っています。青墓は鎌倉時代東山道の宿駅として栄えた場所でした。

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 やがて県道のバイパスと合流しますが、その左手角には中山道の説明板が立っています。

 バイパスを横断します。角には久しぶりのコンビニがあり、その裏手を直進します。

 進行方向は黒い雲に覆われてしまいました。でも、反対側の空は全くの晴天です。

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 伊吹山が間近に見えてきます。頂上は雪が降っているのでしょうか。

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 県道を横断して7分のところにT字路がありますが、右へ進むと美濃国分寺跡があります。その角には国分寺道と刻まれた道標が立っています。国分寺へ寄ってみたい気はありましたが、雲の様子を見て先に進むことにしました。

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 青野町付近を歩きます。

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 右手の常夜灯の前に一里塚跡碑が立っています。青野ヶ原の一里塚で、日本橋から数えて111里目の一里塚です。常夜灯は大正時代のものです。

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 垂井町に入ると、右手には平尾御坊道道標があります。右手を進んだ先にある平尾御坊願證寺への入口です。

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 追分交差点の先、道は左へ緩やかにカーブして川の脇を歩きます。赤坂宿を出て55分、橋の袂で左手からの広い道と合流します。

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 ここは、中山道と美濃街道の合流する追分です。

 角には追分道標と説明板があります。垂井宿問屋・奥山文左衛門が宝永6年(1706年)に建てた美濃路の追分道標で、「是より右東海道大垣みち 左木曽街道たにぐみみち」と書かれています。下の写真の左手がこれまで歩いてきた中山道、右手が大垣宿や墨俣宿を経て東海道宮宿へ通じる美濃街道です。

 追分を右折して、脇を流れていた梅谷川を渡ります。追分橋です。

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 その先で相川橋北交差点に出ます。ここを左折して相川に架かる相川橋を渡ります。

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 相川の下流方面です。のどかな眺めです。

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 そして、上流方面です。伊吹山が見えます。少し雲が取れてきました。

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中山道(27)美江寺から関ケ原 その4へ続きます。

 

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