今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

中山道(28)関ケ原から鳥居本 その1

 

2018年11月11日

 

関ケ原宿

 

 朝、新幹線に乗って、名古屋回りで8:50に関ケ原駅に到着しました。1年ぶりにこの駅に立ちます。今回は2泊して、野洲まで進めようと思っています。野洲まで行けば、ゴールも見えてきます。

 天気は快晴。少し風があって、15℃くらいだと思いますが、とても気持ちのいい朝です。9:00に歩き始めます。

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 本日のスタート地点、関ケ原駅前交差点を目指しますが、駅前広場の左手の道を進み、東公門交差点にある関ケ原醸造角から街道を西へ向かって歩き始めます。

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 関ケ原駅前交差点を通過します。

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 関ケ原は宿場町というよりは、古戦場の町としてピーアールしています。当然ですが。

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 すぐの右手には脇本陣や本陣があったところですが、今は遺構を見ることはできません。

 また、銀行のある四つ角は、右手が旧北国街道(北国脇往還)、左手が旧伊勢街道で関ケ原宿は交通の要所でもありました。

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 関ケ原西町交差点で国道465号を横断します。交差点を過ぎると、街道らしい町並みが続きます。

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 左手には大神宮常夜燈が立っています。このあたりが、関ケ原宿の京側の入口でした。

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 常夜燈の少し先の右手には西首塚があります。関ケ原合戦の戦死者の首級を葬っています。

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 関ケ原西町交差点から8分、松尾信号のある所を左へ入ります。角には「これより中山道」の標柱が立っています。

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 すぐにT字路にぶつかるので、右折します。

 T字路正面には、井上神社の社標が見えます。井上神社は天武天皇を祀っている神社です。

 また、T字路右角には、「美濃不破関 東山道と東城門跡」の説明板があります。かつての東山道不破関があった所で、東端の城門や楼がありました。

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 すぐの右手に不破関庁舎・兜懸石への標識が立っています。ここを右に入って、民家の庭先のようなところを歩いていくと、その説明板と兜掛石があります。このあたりに、関の中心建物があったとされています。

 また、兜掛石は壬申の乱の時、大海人皇子が兜を掛けた石と伝えられています。この後方に沓脱石もあると記されています。

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 中山道に戻り、左手の民家の前に不破関跡の説明板があります。不破関は伊勢鈴鹿、越前愛発(あらち)とともに古代律令制下の三関の一つとして、壬申の乱(678年)の後に設置されました。

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 その先、道は二手に分かれ、左の坂を下ります。途中に西城門跡の説明板があります。不破関は西側を流れる藤古川の作る河岸段丘の上に立ち、自然の要害となっていました。

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 坂を下ると、藤古川にかかる藤下橋を渡ります。壬申の乱ではこの川をはさみ、西側には大友皇子、東側には大海人皇子が陣を取り対峙しました。このあたりは、関ケ原の合戦だけではなく、それより遥か1000年も昔の壬申の乱の合戦地でもありました。橋の欄干には説明板が設置されています。

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 橋を渡った先の若宮八幡神社には大友皇子が祀られています。

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 その先から上り坂となり、十字路を直進すると、すぐの左手には矢尻の池跡があります。壬申の乱のとき、大友皇子軍の兵士が水を求めて矢尻で掘ったものと言われています。

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 少し広めの町道と合流して直進方向へ進みます。

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 松尾の信号から国道21号と分かれて20分弱、再び、国道と合流します。合流地点で振り返ると、先程と同様に「これより中山道」の標柱が立っています。

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 歩道橋で国道を横断して、右の道へ進みます。山中地区へ入ります。

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 ここ旧山中村はかつて間の宿として賑わい、今須峠を控えて立場茶屋がありました。

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 その先右手、若宮八幡神社JR東海道本線の先の高台にあります。ここには、関ケ原の合戦の際、大谷吉継が陣地を構えていて、現在は観光スポットの一つとなっています。

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 すぐの右手には高札場跡の説明板が立っています。休憩スペースもあります。

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 さらにその先には、黒血川が流れています。壬申の乱の流血で川底の岩石が黒く染まったという謂れがあります。

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  左手に流れている川に滝が見えてきます。この滝は鶯の滝と呼ばれ、年中鶯が鳴いていたと言われています。かつて、今須峠を上り下りする旅人の心を癒してくれる格好の場所でした。

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 鶯の滝から道が二手に分かれるので、右の道へ進んで新幹線の高架をくぐります。

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 道は静かな旧道となり、すぐのところで、「常盤御前の墓」の標識が立っています。

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 右に入るとすぐに小さな広場があり、一角に常盤御前の墓があります。義朝が平治の乱で敗れ、源氏がちりぢりになると、牛若丸が東国へ走ったと聞いた常盤御前は乳母の千種とともに牛若丸の後を追いました。しかし、この地にやってきたところで土賊に襲われ命を落としてしまったと言われています。

 また、隣には芭蕉の句碑もあります。幕末の俳人、化月坊は美濃派再構のため、各地に芭蕉句碑を建てました。そして、この場所に俳人接待のための「秋風庵」を造り、盛大な句会を開きました。彼の没後に秋風庵は日守にある一里塚の隣に移され、旅人の休憩や句会の場所として利用されました。

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 すぐに、少し広めの町道と合流し、右へ進みます。

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 街道はJR東海道本線の線路に近づき、山中踏切で線路を渡ります。鶯の滝の先で右の道に入って10分強のところです。

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 今須峠に向けて緩やかな坂を上っていきます。たまにしか車とすれ違わない静かな道です。ススキの穂が出揃っています。

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中山道(28)関ケ原から鳥居本 その2へ続きます。

 

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