今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

中山道(28)関ケ原から鳥居本 その2

 

2018年11月11日

 

今須峠

 

 やがて今須峠に差し掛かります。説明板が立っています。かつて、このあたりには茶屋が数軒ありました。冬場は積雪も多く、難所だったそうですが、今は簡単に越えられます。

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 その先、峠道を下っていくと国道21号と合流します。国道も緩やかな下り坂となっていて、その向こうには今須の町並みを望むことができます。

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 国道を横断したすぐ先にある駐車場の手前に一里塚が復元されています。今須の一里塚です。日本橋から数えて114里目の一里塚です。この一里塚は国道敷設の際取り壊されてしまったものを、東側へ移して復元したものです。

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 一里塚の先で国道から左の道へ入り、大きく右へ回り込んで国道の脇を進みます。

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今須宿

 

 今須橋を渡ります。左手には常夜燈が立っています。このあたりに今須宿の江戸側の入口がありました。

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 すぐの左手、今須生活改善センターの前に今須宿や本陣の説明板が立っています。このあたりに本陣や脇本陣がありました。

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 右手には問屋場跡があり、説明板が立っています。美濃16宿のうち現存している問屋はここ山崎家のみとのことです。

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 今須宿の町並みが続きます。

 問屋場跡のはす向かい、板塀から引っ込んだところに金毘羅大権現永代常夜燈があります。京都の問屋が大名の荷物を運ぶ途中、この地で荷物を紛失してしまい金毘羅大権現に祈願したところ、幸いにもその荷物が出てきました。お礼としてこの常夜燈を建てたと言われています。

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 やがて町並みを抜けたところで十字路に出ます。その左手角には洒落な灯籠が立っています。

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 国道に突き当たる手前左手に坂道が見えます。車返坂と呼ばれています。

 南北朝時代に公家の二条良基が、人から不破関屋が荒れ果てていて、板庇からもれる月光の風情を眺めるのが面白いと聞き、不破関屋に行くことにしました。それを聞いた不破関屋の家人は見苦しいところは見せられないと屋根を修理してしまいました。この坂まで来た時に、そのことを知った良基は落胆して、引き返してしまったという謂れがあります。

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 その先、今須交差点で国道21号を横断し、すぐの車返踏切で東海道本線を横断します。

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 正面の工場脇を進むと、その駐車場の前に芭蕉の句碑が立っています。

 「正月や美濃と近江の閏月」

 脇には野ざらし芭蕉街道今須宿と記された石碑もあります。芭蕉野ざらし紀行奥の細道でこの地を訪れたと言われています。

 ちょうど、街道歩きツアーの一行なのか、大勢の人がガイドさんの話に耳を傾けていました。

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 すぐに、美濃と近江の国境に到着します。現在の県境でもありますが、小さな溝で仕切られています。その脇には、国境を表していた初代標柱の基礎石が置いてあります。

 馬籠峠から延べ7日をかけて岐阜県を通過したことになります。

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 街道右手には、寝物語の里碑があります。両国に接する旅籠に泊まる旅人が、壁越しに寝ながら話をすることができたことから名付けられました。

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 その先は楓の並木となっていますが、残念ながら紅葉は始まったばかりです。

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 さらに、かつての東山道との分岐があります。しかしながら、この先は消失しているそうです。

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 車返踏切から20分、野瀬踏切で再び東海道本線を渡ります。

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 野瀬踏切を渡り、右折して線路脇の道を歩きます。道路脇には色づいた楓の木々が並んでいます。ここの楓はきれいに紅葉しています。楓並木の中、柏原宿の略史と宿場町の絵図があります。

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柏原宿

 

 踏切から7分ほどで、右手に東見附跡の説明板が立っています。このあたりが柏原宿の東の入口で、道の両側に食い違いの土塁があったそうです。

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 八幡神社前交差点を過ぎて、次のT字路の右奥には柏原駅が見えます。

 柏原宿の家々には往時の屋号を示す板が立て掛けられています。また、建屋や塀の柱にベンガラで赤く塗ったお宅も多く見られます。ベンガラは酸化鉄からなる顔料で腐食防止の役割を果たしています。

 宿場の入口から歩いて10分弱の左手には、東の荷蔵跡と問屋場跡の説明板が立っています。当日中に駅伝運送ができない荷物をこの蔵に収納したのと、藩年貢米の集荷蔵も兼ねていました。

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 東の荷蔵跡の対面には脇本陣跡があります。遺構はなく説明板が立つのみです。

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 脇本陣跡のすぐ先には問屋があり、柏原宿の説明板が立っています。

 その先には本陣跡があります。皇女和宮も宿泊しました。こちらも遺構は残っていません。

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 市場川に架かる市場橋の袂の右手には秋葉山常夜燈が立っています。ここには高札場もありました。

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 その先には造り酒屋跡があります。柏原宿は水量水質に恵まれ、数軒の造り酒屋がありました。このあたりの町並みは趣があってとても良いです。

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 造り酒屋の対面には伊吹もぐさを商っている伊吹堂亀屋左京店があります。江戸の当時は伊吹もぐさを商う店は十数軒あり、柏原の特産品として有名でした。現在はここ1軒となっています。広重の絵に描かれていたお店の構えがそのまま残っています。

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 西の荷蔵跡、旧柏原銀行跡を通り過ぎ、すぐの左手には薬師道道標が立っています。正面には漢文で、両側面には仮名文字で書かれています。最澄ゆかりの泉明院へ通じる道標で、享保2年(1717年)に建てられました。

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 その先の交差点右角にはお茶屋御殿跡があり、小公園になっています。徳川家康の休泊所として西村家の屋敷を使っていましたが、そこを御殿として整備したものです。その後、将軍家の上洛が少なくなり、元禄2年(1698年)には廃止されました。

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 柏原の家並みが終わるところで天野川に架かる丸山橋を渡ります。その先左手には柏原一里塚の石碑が立っています。

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中山道(28)関ケ原から鳥居本 その3へ続きます。

 

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