今に続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

中山道(29)鳥居本から五個荘 その2

 

2018年11月12日

 

多賀大社大鳥居

 

 高宮鳥居前交差点の左手には多賀神社大鳥居(一の鳥居)が立っています。この鳥居は寛永12年(1635年)に着工されたという記録が残っています。下の写真は一旦鳥居をくぐってから、振り返って中山道を望んでいます。

 ここから、3.5km先の多賀大社までの参詣道(多賀道)の両脇には、一丁(約100m)おきに神燈(常夜燈)が並んでいます。

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 さらに、高宮宿を進むと右手に芭蕉の紙子塚の説明板があります。貞享元年(1684年)の冬、小林家に宿泊した芭蕉は、自分が横になっている姿を描いて、

 「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」

という句を詠みました。小林家では新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、古い紙子をいただきました。その後、庭に塚を作り、これを収めて「紙子塚」と名づけたと言われています。

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 芭蕉紙子塚の先には脇本陣跡があります。問屋を兼ねていました。また、この前には高札場もありました。

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 脇本陣のはす向かいには本陣跡があります。表門だけが残っています。

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 高宮宿に入っておよそ20分で高宮橋手前の無賃橋北詰交差点に着きます。このあたりに高宮宿の京側の入口がありました。

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 ここ犬上川には、かつて無賃橋と呼ばれる橋が架かっていました。橋の袂には「むちんばし」の石碑が立っています。

 天保の始め、彦根藩は増水時の「川止め」で川を渡れなくなることを解消するため、この地の富豪、藤野四郎兵衛・小林吟右衛門・馬場利左衛門らに、費用を広く一般の人々から募らせ、橋をかけることを命じました。当時、川渡しや仮橋が有料であったのに対し。この橋は渡り賃を取らなかったことから「むちんばし」と呼ばれました。

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 犬上川を渡ります。当時とは異なり、現在は水無川となっているようです。橋を渡った袂にも「むちんばし」の石碑があります。

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 その先、四の井川に架かる新安田橋を渡ります。橋を渡ったあたりに法士(ほうぜ)の一里塚がありました。石碑があったようですが見過ごしてしまいました。日本橋から数えて120里目の一里塚です。

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 法士町交差点を過ぎると、松や楓やケヤキの並木となります。

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 やがて、葛籠(つづら)町地区に入ります。空が暗くなってきました。

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 法士町交差点から15分で左手には、彦根市のモニュメント「おいでやす彦根市」が現れます。鳥居本宿の手前にあったのと同じものですが、人物像は違います。

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 出町の交差点を過ぎると出町地区に入ります。ケヤキ並木や松並木が続きます。

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 街道の南側には見渡す限りの田園風景が広がっています。新幹線の高架の遥か先には鈴鹿山脈でしょうか、山々を望むことができます。

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 四十九院地区に入ります。茅葺の屋根にトタンをかぶせた家を多く見かけます。妻の部分には「水」の文字が記されています。

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 ベンガラの赤い色が際立ちます。

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 すぐの左手には、広大な敷地に立派な建物が連なる豊郷小学校旧校舎群があります。

 豊郷小学校旧校舎群は、昭和12年(1937年)に近江商人、商社「丸紅」の専務であった古川鉄治郎氏によって寄贈され、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の設計で建てられました。当時は、「白亜の教育殿堂」「東洋一の小学校」と言われ、平成25年(2013年)には国の登録有形文化財に指定されました。現在は、図書館や子育て支援センターなど町の複合施設として利用されています。

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 その先右手には石畑立場跡碑と説明板があります。ここ石畑は、高宮宿と愛知川宿の中間に位置し、立場茶屋もあり、間の宿として発展しました。

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 その先左手には八幡神社がありますが、道路脇には「一里塚の郷 石畑」と記された石碑が立っています。バス停も「八幡神社一里塚の郷」という名前です。このあたりに石畑の一里塚があったようです。日本橋から数えて121里目の一里塚です。

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 豊郷駅入口のT字路を通過します。豊郷町の中心部のようです。

 T字路からすぐの左手には伊藤長兵衛家屋敷跡碑があり、さらに少し歩くと、伊藤忠兵衛記念館が建っています。現在の伊藤忠・丸紅の創始者近江商人の筆頭としてあげられる伊藤忠兵衛(1842-1903年)が住んでいた屋敷を記念館として開放しています。

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 右手には天稚彦(あめわかひこ)神社の社標が立っています。戦国時代、佐々木京極氏の家臣であった高野瀬氏がこの地に城を構え、氏神を守護神として祀っていました。境内では盛んに楽市を開いたとが伝わっています。

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 その先右手には又十屋敷があります。近江商人藤野喜兵衛の屋敷跡です。明治になって鮭缶の製造を始めました。

 敷地内に中山道一里塚の石碑が立っていますが、先ほどの石畑の一里塚とどのような関係にあるのか分かりません。

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 右手、千樹寺の隣には江州音頭発祥地の石碑が立っています。盆踊りに歌われる音頭とのことです。

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 田園風景が広がる先で、歩道のない歌詰橋を渡ります。橋を渡った右手には歌詰橋碑と説明板が立っています。

 説明板には、天慶3年(940年)平将門は、藤原秀郷によって東国で打たれ首級をあげられました。 秀郷が京に上るために、中山道のこの橋まで来たとき、目を開いた将門の首が追いかけてきました。このため、 将門の首に対して歌を一首と言ったところ、問われた将門の首はその歌に詰まり、橋上に落ちてしまいました。そこがこの土橋であったという伝説があります。 以来、村人はこの橋を歌詰橋と呼ぶようになったと記されています。

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 橋を渡ると石橋地区に入ります。

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 その先はY字路になっていて、その角には旗神豊満大社道標が立っています。街道はY字路を右に入ります。

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 愛知川小学校の脇を進みます。ここにもトタン屋根の旧家が見られます。妻の部分には「水」の文字があります。

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