2019年4月26日
笠川
笠川交差点を過ぎて、草津市に入るあたりから東海道本線の高架が見えてきます。いよいよ、中山道最後の草津宿も近くなりました。葉山川橋を渡ります。
線路脇の柵の切れ目から小さなトンネルをくぐって線路の反対側へ渡ります。街道が東海道本線によって分断されています。トンネルの入口には、街道歩きの人達のために地図が示されています。
天井の低いトンネルを抜けると、そのまま直進して駐車場の脇を右折します。
さらに、マンションの角を右折します。
線路脇に出たところで道なりに左折します。トンネルを抜けて、すぐの線路沿いも歩けるようです。
Y字路を直進してしばらく、道なりに歩くと県道の高架の下をくぐります。
その先左手には、伊砂砂神社があります。健康福寿のありがたい神様を祀っています。
このあたりから、茶色い小石を固めた道となります。正面にはタワーマンションが見えてきて、草津の中心部に近づいてきました。
JR草津駅からの大路交差点を横断し、さらに、先の大通りを横断します。このあたりに中山道最後の一里塚、草津の一里塚がありました。日本橋から数えて129里目の一里塚です。この先の追分でいよいよ中山道も終わりです。
さらに商店街を歩き、十字路を左折するとすぐのところに覚善寺があります。その門の脇には、東海道と中山道を分ける道標が立っています。明治19年(1886年)に造られたもので、明治以降はこの覚善寺の角が東海道と中山道の追分となったようです。
その先、距離は短いですが、屋根付きのアーケード街を通ります。
アーケードを抜けると草津川トンネルに出ます。かつての草津川は天井川であり、明治19年(1886年)に川の下を通るトンネルができましたが、現在は川筋を別の場所に移したため、川は流れていません。
往時の街道に沿って右脇の階段を上って川跡を渡ります。
旧草津川は広場として整備されています。下の写真は上流側の眺めです。
草津宿
川跡を横切り、反対側の土手を下ると草津川トンネルの出口脇に出ます。
角には東海道との追分道標が立っています。「右東海道いせみち 左中仙道みのぢ」と記されています。下の写真のトンネルから見て左手が東海道の江戸方面、直進方向は東海道の京方面となります。この場所には高札場もありました。このあたりが草津宿の中心地でした。
長かった中山道の旅も終わり、今度は京を目指して東海道を歩きます。
すぐの右手には草津宿本陣跡があります。国指定の史跡で一般公開されています。
このあたりは、趣のある町並みを残しています。足元には先ほど見た追分道標のイラストが描かれたマンホールの蓋がありました。
その先、左手のパン屋の脇には脇本陣の石碑が立っています。よく見ると店の看板にも脇本陣の文字があります。
しばらく歩くと、左手には太田酒造があります。太田家は問屋場とともに貫目改所を務め、政所と呼ばれていました。白壁の美しい蔵並みです。
その先、立木神社前交差点を渡ると、右手には立木神社があります。建立は称徳天皇の時代の767年と言われています。ご神木として、樹齢400年と推定されるウラジロガシがそびえています。
立木神社の脇を歩くとすぐに、矢倉橋が見えてきます。かつてこのあたりに黒門と呼ばれる草津宿の京側の入口がありました。左手脇には説明板が立っています。かつての見附は立木神社の手前あたりにありましたが、石垣が崩れてしまったのを機に。この地に移されたそうです。
草津川に架かる矢倉橋を渡ります。かつての旧草津川の流れはこの川に川筋を変えられています。
雰囲気の良い矢倉地区を進みます。
黒門跡から5分。右手に瓢箪の店、瓢泉堂があります。ここは、往時の東海道の名物であった姥ガ餅を出していた茶店がありました。
店の前には矢橋(やばせ)道道標が立っています。矢橋は琵琶湖に面する矢橋渡しのある所で、大津へ向かうには瀬田の唐橋を通って陸路で進むより2里ほど距離が短縮されます。しかしながら、琵琶湖の渡し船は比叡おろしの突風で危険を伴うものでした。このため、「瀬田に回ろか、矢橋へ下ろうか、ここが思案の姥が餅」と、この地で語られました。
やがて国道1号に出ます。矢倉南交差点です。この先の道がちょっとだけ難しいです。交差点を横切って、一旦、国道脇の道に入ります。
路地を進むと正面に小さな公園があり、一里塚と書いた看板が立っています。上北池公園と言うようです。
公園の中に入ると右手隅に野路の一里塚の石碑があり、左手には説明板が立っています。日本橋から数えて119里目の一里塚です。東海道初の一里塚です。
その先、公園の反対側へ出て、かがやき通りを横断して、正面の旧道に入ります。
街道は弓なりに大きく右へ曲がります。
さらに、生垣がきれいな雰囲気のある町並みを進み、信号のある県道43号との交差点を横切ります。