今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

中山道(32)大津から京三条大橋 その1

 

 2019年4月27日

 

大津宿

 

 中山道歩きの最終日です。ゴールの三条大橋まで残すところおよそ10kmとなりました。天気予報では回復して晴れるようです。昨夜の雨はあがり、朝の大津の空は暗い雲と所々晴れ間が見える微妙な天気です。

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 8:35にホテルの前の札ノ辻を南(下の写真では右手方向)に向けて出発します。若干、パラパラと小雨が降っていますが傘を挿すほどではありません。

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 札ノ辻から京阪の路面電車と伴に緩やかな上り坂をしばらく歩くと、線路は車道から右手へ逸れていきます。

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 左手には、本陣跡があります。大津は東海道と北国街道の合流点であり、琵琶湖の水運の拠点でもあったことから、大変栄え、この近辺に本陣2軒、脇本陣1軒がありました。明治天皇が休憩をした石碑も立っています。

 北国街道といえば鳥居本宿から琵琶湖東岸を北上して北陸へ通じる街道ですが、ここ大津の札ノ辻から小関越えの道に入り、途中で北に分岐して三井寺の門前を通り、堅田や今津の琵琶湖西岸を北上する街道も北国街道と呼ばれているようです。

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 東海道本線を越えた先、さらに、緩やかな上り坂を上っていくと、右手、京阪の踏切の向こうに関蝉丸神社下社の鳥居が見えます。

 蝉丸は平安時代の琵琶法師であり歌人でもありました。彼がここ逢坂の地に住んでいたことから、没後にこの先にある上社とともに祀られています。

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 その先で、先ほど分かれた京阪の踏切を越えます。

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 さらに、坂道を上っていくと国道1号線と合流します。逢坂一丁目交差点です。

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 逢坂一丁目交差点の右手の奥にトンネル跡があったので、寄り道をしました。旧逢坂山隧道跡です。説明板によると、日本人が設計施工を行った初めてのトンネルで、明治13年1880年)に竣工し、全長6684mの距離がありました。大正10年(1921年)に線路変更が行われるまで使用されていました。

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 逢坂一丁目交差点まで戻り、さらに、坂道を上ります。山あいを国道1号と京阪の線路が走り、その上を名神高速道路が通っています。国道は大津方面行きが妙に混んでいます。

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 その先、右手には関蝉丸神社上社の赤い鳥居が立っています。

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 ひとしきり坂道を上ったところで、信号のある交差点から右の旧道に入ります。

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 交差点の右脇には逢坂の関記念公園と称した小スペースがあり、説明板が立っています。逢坂の関は平安時代、不破、鈴鹿と並ぶ古代の関所でした。その場所はこの地より東側にあったとされていますが、所在地は不明のようです。

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 旧道を歩くと、鰻のかねよがあります。鰻重の上にだし巻き卵を乗せた「きんし丼」が有名です。

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 その先、右手には蝉丸神社があります。こちらは、先に通り過ぎた関蝉丸神社の分社とされているようです。

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 民家の路地の奥に、見過ごしてしまいそうな京阪電車大谷駅があります。

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 やがて国道1号と合流し、歩道橋に上って歩道のある左側へ渡ります。

 逢坂の関を越えて緩やかな下り坂が続くその先、左手には立派な石垣が続きます。月心寺というお寺があります。かつて、ここには、茶屋があり、こんこんと湧き出た井戸の水で作った走井餅が名物でした。石垣の傍らに、「右一里丁 左大谷町」と記された道標が立っています。

 このあたりの旧町名は今一里塚町といい、この付近に、大谷の一里塚がありました。日本橋から数えて123里目の一里塚です。

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 ここは山と山が迫る狭隘な場所で、国道1号京阪電車、そして、先ほど高いところで交差した名神高速道路がいつの間にか並行して走っています。

 やがて、街道は名神高速道路の下をくぐります。

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 その先の交番の前の交差点で左へ入ります。

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 街道はどんどん坂道を上っていきます。

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 だいぶ高台に上がってきました。右手は大津市追分町方面を望むことができます。このあたりは、街道の右手が滋賀県、左手が京都府になっています。

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 その先で街道は二股に分かれています。右手の直進方向が東海道。左手は奈良街道で伏見へ抜けられるそうです。分岐の角には追分道標が立っていて、「みきハ京ミち ひだりハふしミみち」と記されています。左の碑には「蓮如上人御塚」と記されています。しかしながら、両方とも折れてしまったのか金属板で補強され、その上に隠れた部分の文字が書かれています。後ろの塀には追分の説明板があります。

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 その先、すぐの右手には閑栖寺(かんせいじ)があります。入口が長屋門になっていて、その上には太鼓楼があります。入口の脇には車石の説明板とその現物が置いてあります。

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 車石とは、大津から京都三条大橋までの約10kmの間に牛車専用通路として、東海道沿いに敷き詰めた石のことです。頻繁な牛車の通行により車の轍の部分が削られてしまっています。文化2年(1805年)に施設工事が始まり、京に向かって右側が牛車道で左側が人馬道となっていました。境内には車石・車道が再現されています。

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 東海道に戻り、真っ直ぐに伸びた緩やかな坂を下ります。

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 国道1号に突き当たる手前の右手の歩道橋に上り、国道を横断します。

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 歩道橋の東側には琵琶湖の湖西を行く西大津バイパスとの合流点になっています。

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 歩道橋を渡り終えると、少しだけ国道沿いを歩き、先ほどの道の先を歩きます。この先も真っ直ぐの道です。

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 すぐの右手には「三井寺観音道 小関越」と刻まれた道標が立っていて、大津宿の札ノ辻に通じる小関越道との追分になっています。

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中山道(32)大津から京三条大橋 その2へ続きます。

 

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