2013年12月21日
越谷御殿
県道49号から2~3分で、越谷御殿跡に着きます。徳川家康がこの地に御殿を建てて、越谷御殿と称しました。家康はしばしば、ここに宿泊して鷹狩を行っていました。また、秀忠も同様に宿泊して鷹狩を行っていました。しかし、明暦の大火で江戸城が焼失した際、仮住まいとして、この御殿を江戸に移築することになりました。現在もこのあたりの町名は御殿町と言います。またここから、元荒川の下を通っている葛西用水が地上に出るところが見えます。
再び大沢橋に戻り、日光街道の先を進みます。大沢橋から下流の県道49号に架かる元荒川橋を望みます。
大沢橋を渡って大沢地区に入ります。このあたりはかつて越谷宿の中心地で本陣や脇本陣があったらしいのですが、石碑や説明板など何も見られません。
この場所は、駅名で言うと越谷駅ではなく北越谷駅が近いようです。
北越谷駅入口交差点を過ぎると、街道の正面に東武線の高架が見えてきます。
その先で東武線の高架と並走するようになり、さらに道なりに歩いて、高架の下をくぐります。
高架をくぐるとすぐに、街道は右へカーブしますが、正面で元荒川の土手に出ることができます。
右手が公園になっているようです。
街道に戻り、しばらく住宅街を歩くと、左手奥に宮内庁埼玉鴨場の冠木門が見えてきます。当然のことだと思いますが、表示板などは何もありません。毎年かなりの数の鴨が越冬のために飛来する池があるそうです。
さらに、10分弱で国道4号バイパスの下をくぐります。この交差点の先で左折すると大袋駅に通じています。
その先15分ほど歩くと、睦橋入口交差点で国道4号に合流します。ここからは国道4号をひたすら北上します。
せんげん台駅入口のすぐ先で、新方川に架かる戸井橋を越えます。ここから先は春日部市になります。
春日部市に入って、平凡な国道4号の風景の中を30分ほど歩くと、備後北という押しボタン信号の付いた横断歩道に着きます。その信号機右手の民家の塀の前に、備後一里塚跡の碑が立っています。日本橋から数えて8里目の一里塚です。
粕壁宿
一里塚から、さらに、ひたすら国道4号を歩くこと25分で一宮交差点に差し掛かります。一宮交差点は進行方向が三方に分かれていて、左の道へ入ります。ここが、粕壁宿の入口で、右手には東陽寺があります。奥の細道で芭蕉と曾良の一行が宿泊した場所の候補の一つとされています。
現在の街道は、電線を地中に埋設してきれいになっています。
しばらく歩くと、右手に西武百貨店がありますが、その道を隔てた向かい側に本陣や脇本陣があったようです。しかしながら、説明板等はありませんでした。
西武百貨店から3~4分歩くと右手に蔵造りの商家である田村家住宅があります。その前に道標が立っていて、正面には「西南い八つき」と書かれています。天保5年(1834年)に建立されました。
その先すぐに、公園橋西交差点に着きます。春日部駅入口です。交差点を横断した右側に、粕壁宿の説明板が立っています。このあたりには問屋場があったそうです。
少し行くと、右手に永嶋庄兵衛商店があります。慶長年間創業の米屋です。屋根には鍾馗様が乗っています。
さらに、角に高層マンションの建っている新町橋西交差点に出ます。日光街道はここを右折します。
新町橋西交差点を右折する前に、直進して最勝院に寄道します。後醍醐帝に仕えた春日部重行の墓があります。この付近は粕壁宿の寺が集まったところで寺町と呼ばれていました。
再び新町橋西交差点に戻り、左折してすぐの大落古利根川に架かる新町橋を渡ります。
古利根川の上流方面を眺めます。流れはとても静かです。
橋を渡って次の信号を左折します。
その先、5分のところにあるT字路を右に入った角に一里塚跡碑が立っています。
小淵の一里塚跡で、日本橋から数えて9里目の一里塚です。その隣には庚申塔も並んで立っています。
小淵の一里塚跡碑のすぐ先で道は二股に分かれますが、日光街道は左の道に入ります。右の道は関宿道で、追分になっています。関宿道の右手には、白壁が続く大きな屋敷林が立つお宅があります。
分岐する角には大小二つの道標が立っていて、大きい方の左側面には「左日光道」と記されています。
追分の先で国道4号と合流し、すぐに、国道16号を越えます。さらに、国道を歩きます。
追分から10分弱で左手に観音院があります。立派な仁王門が建っていますが、先の震災のため、立ち入り禁止になっています。ここは、粕壁宿入口にあった東陽寺とともに、芭蕉と曾良が奥の細道で最初に泊まった場所と言われています。
観音院の先にある小渕北交差点で、本日の街道歩きは終わりとます。左折して、北春日部駅を目指します。
途中、先に越えた大落古利根川を渡り、突き当りを左折すると北春日部駅に着きます。時刻は14:00ちょうどです。今日は5時間25分の行程でした。