2014年1月2日
横町
スーパートミヤの交差点に戻り、左折すると「よこまち柳通り」と呼ばれる通りになります。右手に石碑立っています。
その先に川魚料理の割烹武蔵屋があります。この建物も国の登録文化財に指定されています。
旧家を見ながらよこまち柳通りを歩きます。
よこまち柳通りに入っておよそ10分で、日光街道は曲の手で分かれた県道261号に再び合流します。変形十字路を左へ曲がり県道に入ります。
交差点の手前、右角には、台町三叉路にあったのと同じ常夜灯のモニュメントが立っています。ここにはかつて木戸があり、古河宿の日光側の出口がありました。日光へ向かう旅人は、桝形を右に曲がって木戸をくぐるため、ここで初めて左手に筑波山が見えました。左筑波と呼ばれた名所でした。
県道261号を歩き、途中、ショッピングセンターを過ぎたあたりで茨城県から栃木県に入ります。
県道と合流してから15分ほど歩くと、野木交差点で国道4号と合流します。その手前、左手に野木神社の鳥居が立っています。本殿は鳥居の奥、遥か600~700m先にあります。延歴年間(786~806年)に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷を平定し、凱旋する際に野木神社を訪れ、鎮撫の功を奏し、現在の場所に社殿を造営させたと言われています。
野木交差点で国道4号と合流します。交差点を振り返って見ました。交差点左手には、野木宿周辺の松並木の説明板があります。元和8年(1622年)に古河藩主永井直勝が、また、その子、尚政が寛永期に、中田から小山までの街道沿いに松を植えたと言われています。
ここから、変化に乏しい国道歩きとなります。
野木宿
野木交差点から数えて2本目の道を左に入った民家のブロック塀に、野木宿入口の説明板が立っています。ここには木戸がありました。
宿入口説明板から5分ほどで、左手、国道に面した民家のブロック塀に野木宿の説明板が立っています。この場所には本陣がありました。
野木宿は、かつて、野木神社周辺にあった集落を文禄年間(1592~1596年)に街道筋に移して馬継を始めたのがきっかけと言われています。隣の古河宿や間々田宿に比べると規模の小さな宿場町でした。
その先には満願寺があり、門前には十九夜塔が立っています。十九夜塔は安産や子どもの健康を願って建てられました。栃木県に多く見られるそうです。
さらに、先の交差点を渡って左側角に、野木の一里塚跡の説明板が立っています。日本橋から数えて17里目の一里塚です。
一里塚跡から5分ほどで、その先の道が右に大きくカーブするところで幅の広い歩道がなくなるのが見えてきます。
その手前左手に道標と説明板が立っています。
道標には、「是より太平山道」と記されています。この地から例幣使街道の栃木宿を経由して日光へ向かうショートカットの道でした。また、大平神社の参詣道でもありました。
野木の交差点から国道4号を歩き始めて40分。友沼交差点に着きます。右折すると野木駅へ至ります。
その先も、淡々とした国道が続きます。
友沼交差点から、さらに15分で左手には法音寺があります。仁王門にいらっしゃる仁王様はガラス戸の中で立っています。
法音寺には芭蕉の句碑が立っています。
「道ばたの むくげは馬に 喰われけり」
野ざらし紀行の句だそうです。
法音寺の街道を隔てた筋向いに友沼八幡神社があります。ここは徳川将軍が日光社参の際、休憩に使われた神社です。
法音寺から5分ほどで小山市に入ります。
その先すぐのT字路の、奥にグループホームふれんど間々田が見える角に馬頭観世音が小さいながら立っています。この馬頭観世音は道標を兼ねていて、台座には「是より左 乙女河岸 あじと とちき さの道」と記されています。あじとは思川対岸の網戸(あじと)を示しています。
東京から69kmの標識あたりに乙女の一里塚跡があるはずだったのですが、見逃してしまいました。日本橋から数えて18里目の一里塚です。
馬頭観世音から20分ほどで乙女交差点に着きます。
交差点を左へ入ると、思川の乙女河岸跡があります。ここ小山では、思川から江戸の間の舟運による物資の運搬で栄え、東照宮造営のための資材もここで舟揚げされて、陸路で日光まで運ばれました。また、徳川家康が上杉攻めの際に、石田三成の挙兵を知り、三成との戦を決めた小山評定は有名ですが、家康はこの乙女河岸から舟で江戸まで引き返したと言われています。
その先、数分で間々田駅入口の交差点に到着します。今日の街道歩きはここまでとして、右折して間々田駅に向かいます。
野木の交差点から国道4号を歩き始めて、なんと、1時間20分も変化の乏しい道を歩いたことになります。
およそ5分で間々田駅に着きました。時刻は13:30。4時間45分の行程でした。結局、今日はあまり汗をかきませんでした。