今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

日光街道(6)自治医大から宇都宮 その2

 

2014年3月8日

 

雀宮宿

 

 雀宮宿の中心地に到着しました。左手、西松屋の駐車場の角に本陣跡の石碑が立っています。本日初めての遺構跡を示すものを見たかもしれません。

f:id:mame-lantern:20200621182008j:plain

 

 そのすぐ先に、雀宮駅前交差点がありますが、右手角のあたりには仮本陣跡があります。改修なのか取り壊しているのか工事中で門だけが取り残されています。

f:id:mame-lantern:20200621182257j:plain

 

 雀宮駅前交差点から5分で右手に雀宮神社があります。正徳3年(1713年)に東山天皇から下賜された「雀宮」と書かれた額を架けていたため、日光社参の将軍家をはじめ諸大名が参拝したと言われています。

f:id:mame-lantern:20200621182542j:plain

 

 雀宮神社の少し先で東京から100kmの標識を通過します。このあたりから、日光街道国道4号から左へ反れて並行に進む道となりますが、どこから分かれるのかよく分かりませんでした。

f:id:mame-lantern:20200621183427j:plain

 

 100km地点から歩くこと20分強で、国道121号との交差点である宮の内2丁目交差点に着きます。

 さらに、宮の内2丁目交差点から10分強で北宇都宮駐屯地交差点に着きます。左手には陸上自衛隊北宇都宮駐屯地のゲートが見えます。今日は土曜日なのですが、自衛隊から飛ぶヘリコプターの音が結構物々しいです。

 その先、台新田あたりで菅原神社の鳥居が建っています。脇には大谷石の蔵のあるお宅があります。宇都宮と言えば大谷石です。大谷石の蔵をよく見かけます。

f:id:mame-lantern:20200621203942j:plain

 

 横川西小学校付近で東京街道という標識を見つけました。日光街道とは呼ばないようです。東京へ繋がる街道なのでそのように呼ぶのは当たり前のことですね。

f:id:mame-lantern:20200621204235j:plain

 

 横田西小学校から8分ほどで、一里交差点に着きます。このあたりには江曽島の一里塚がありました。線路を敷設する際に取り壊されたようです。ここも遺構を示すものはありません。一里という言葉だけ残っています。日本橋から数えて26里目の一里塚です。

f:id:mame-lantern:20200621204421j:plain

 

 一里交差点から10分強で西原交差点に着きます。この三叉路を右へ進むのが国道4号、直進するのが国道119号となり、日光街道はこれまで歩いてきた国道4号とお別れです。

f:id:mame-lantern:20200621204831j:plain

 

 富士重工の工場を過ぎると、JR日光線の上を越えます。

f:id:mame-lantern:20200621210608j:plain

 

 JR線の上を越えて5分ほどで変形十字路の不動前交差点に着きます。道路を渡った分岐に不動堂が見えます。日光街道は左斜めの不動前通りを入ります。直進方向の国道119号は旧奥州街道で、この地はかつて日光街道奥州街道の追分でした。

f:id:mame-lantern:20200621210846j:plain

 

 不動前交差点から5分ほどで東武宇都宮線の高架をくぐります。このあたりに宇都宮宿の江戸側の木戸がありました。

f:id:mame-lantern:20200621211033j:plain

 

 

宇都宮宿

 

 宇都宮宿に入ります。

f:id:mame-lantern:20200621211241j:plain

 

 その先、右手に蒲生君平勅旌碑があります。蒲生君平は寛政の三奇人と言われ、明治天皇蒲生君平の著書や行いが明治維新に大きな功績があったと称しました。

f:id:mame-lantern:20200621211408j:plain

 

 その先、新町のケヤキがあるということですが、大木が見当たりません。5分ほど歩いて三叉路の信号を左折します。

f:id:mame-lantern:20200621211551j:plain

 

 左折すると富士見通りと呼ばれる道になります。すぐの青い案内板に従って次の路地を左に入ります。

 樹齢800年の新町のケヤキの大木が見当たらないはずです。なんと、切株しか残っていません。後ほどネットで調べてみると、昨年9月の台風で巨木の一部が倒れ、危険のため伐採されてしまったそうです。

f:id:mame-lantern:20200621211706j:plain

 

 不動前通りに戻り、次の平成通りとの交差点を過ぎると、蓬莱大黒通りに名前が変わります。

 交差点から歩いて10分弱、T字路の信号を左に入りしばらく歩くと報恩寺があります。この寺の山門は風情のある茅葺屋根です。

f:id:mame-lantern:20200621211935j:plain

 

 その先、蓬莱大黒通りともみじ通りの交差点はクランク状になっています。蓬莱町の鍵の手と呼ばれています。交差点がクランク状では交通の便が悪くなるからか、道幅を拡張して直線で交差するように工事を進めているようです。

f:id:mame-lantern:20200621212319j:plain

 

 通りは材木町通りに名前が変わり道幅の広い、電柱のない通りになります。

 材木町通りに入って7分ほどで裁判所前交差点に突き当り、国道119号と交差します。日光街道はここを右折します。

f:id:mame-lantern:20200621212531j:plain

 

 裁判所前交差点を右折すると、日光街道は次の信号を左折します。直進方向は奥州街道奥州街道との追分になります。本日の街道歩きはここまでとします。

f:id:mame-lantern:20200621212727j:plain

 

 追分の交差点右手には、本陣跡の碑が立っています。

f:id:mame-lantern:20200621213023j:plain

 

 このまま、奥州街道方面を直進するとJR宇都宮駅に行けますが、途中、宇都宮城址へ寄り道することにします。

 追分から7分ほど歩いた本町交差点を右折します。

f:id:mame-lantern:20200621213819j:plain

 

 本町交差点から8分ほど歩くと正面が宇都宮市役所となります。途中、右手に宇都宮市のシンボルである大イチョウがあります。カメラに収まりきれないほど大きなイチョウの木です。宇都宮市役所の前を左折して少し進むと宇都宮城址公園に出ます。

 宇都宮城平安時代藤原氏により築城されたと言われています。鎌倉時代から戦国時代には宇都宮氏が城主となり、土塁や堀を幾重にもめぐらせた城となりました。その後宇都宮氏は豊臣秀吉に滅ぼされ、江戸時代になってからは譜代大名の居城となりました。中でも、本多正純は城と城下町の大改造を行い、今日の宇都宮の骨格を作り上げたと言われています。その後、お城は戊辰戦争で焼失してしまいました。現在、天守閣として使われていた清明台や富士見櫓、土塀、土塁、掘などが復元されています。

f:id:mame-lantern:20200621213535j:plain

 

 宇都宮城址公園からはバンバ通りへ向けて進み、NHKや中央郵便局の脇を歩くと、突き当りが二荒山神社の大鳥居のある馬場通り一丁目交差点に出ます。ここを右折して、途中、田川にかかる宮の橋を渡り、15分ほどで宇都宮駅に着きました。

 宇都宮駅には13:35に到着しました。本日は5時間25分の行程でした。今日は宇都宮宿の手前まで国道歩きが続き、遺構と言えるものは残念ながら何もありませんでした。一里塚も下石橋、下古山、雀宮、江曽島と通ってきたはずですが、ひとつもどこにあったのか分かりませんでした。

 駅ビルで餃子とラーメンを食べて帰路に着きました。

f:id:mame-lantern:20200621213954j:plain

 

 

kaido-aruki.hatenablog.jp

 

日光街道(6)自治医大から宇都宮 その1へ戻ります。

 

日光街道 歩いた行程表はこちら