2015年12月29日
右赤城
ここから例幣使街道はコの字に辿ります。県道142号から右手に入り、農道を歩きます。
しばらく歩くと「右赤城」の説明板が立っています。どちらかというと右後方ではありますが、確かに右手に赤城山が見えます。日光例幣使街道で唯一右手に見える場所だそうです。中山道清水坂の右富士、古河宿下木戸の左筑波と、昔の人は、いつもと逆方向に見える山を愛でたようです。
説明板の先で左折して、さらに農道が続きます。
県道296号に突き当たるので左折します。
県道と突き当たる左手角に道標が立っています。左ほん志やう(本庄)、東日光道、右五りゃう(五料)と刻まれているようです。この道標も円柱形です。
県道を東へ向かって歩くと、下蓮町交差点で先ほど右手に入った県道142号と合流します。そのまま、交差点を直進します。
街道がこのようにコの字になってしまったのは、広瀬川の流れが現在より街道近くを蛇行していて、それを避けたためと言われています。
その先、広瀬川の手前で県道は右へカーブしますが、街道は左の直進方面の道に入ります。
その道も土手沿いに右カーブして、武士(たけし)橋の袂で先ほどの県道と合流します。左手にはこれから渡る武士橋が見えます。
県道と合流する交差点の手前の土手に、竹石の渡しの説明板が立っています。上野国にある日光例幣使街道の渡し場は五料とここ竹石の2か所で、舟渡でした。例幣使が渡る際は、舟3艘、荷駄積み下ろし人足200人を要したと言われています。
交差点を左折して武士橋を渡ります。
この橋からも群馬の山々を望むことができます。とても眺めの良い場所です。
武士橋を渡って一つ目の信号を左折します。
すぐのT字路を右折します。旧街道らしい静かな町並みです。
橋を渡って7分のところに築山が見られます。八海山を分祀したものですが、日光例幣使街道の一里塚であったという説もあります。立派な松です。またこの場所には、下武士村の高札場がありました。
県道142号と分かれて10分、再び県道と合流します。
社会体育館入口交差点を横断して、その先で右の路地を入ります。
再び、静かな住宅地の中を歩きますが、このあたりは「乳母の懐」と呼ばれていました。輿に揺られて居眠りした勅使が、武士村との境まで向えにきた境宿の町役人に起こされると、「乳母の懐に抱かれていたようじゃのう」と言ったとのこと。
境宿
すぐに、左右を走る県道14号と突き当たる境萩原交差点に出ます。ここを右折します。このあたりに上木戸があったと言われており、境宿の入口でした。
すぐ右手のスーパーがあるあたりが織間本陣跡でした。
スーパーの駐車場入口を過ぎた脇に石碑が立っています。小林一茶が織間本陣の当主と会うために、ここ本陣を訪れた際、当主が不在であったため、
「時鳥 我身ばかりに 降雨か」
という句を残したと記されています。
本陣跡碑の道路を隔てた反対側には質素な問屋場跡碑が立っています。
その先左手、ぐんまみらい信用金庫の脇に飯島本陣跡碑が立っています。
さらに、その先が境町駅入口交差点です。本日の街道歩きはここまでとして、左折して駅に向かいます。
駅に向かう途中、右手にはレンガ倉庫が建っています。大正時代に建てられた繭の乾燥庫、保管庫として使われていました。
13:30、境町駅に到着しました。今日は5時間15分の行程でした。14:06分発の電車で帰路につきました。