2021年10月3日
猿橋
桂川に架かる猿橋は、推古天皇の時代に百済の渡来人によって造られたと言われています。橋脚を使わずに両岸から張り出した刎木(はねぎ)によって支えられていて、日本の三奇の一つに上げられています。三奇橋には、岩国の錦帯橋とともに、もう一つは、木曽の桟(中山道)、日光の神橋(日光街道)、祖谷かずら橋、越中の愛本橋(現存せず)など諸説があります。
現在の猿橋は、昭和59年(1984年)に江戸時代の姿を復元して架け替えられたものです。
橋の上から水面を覗くと、結構高いです。桂川の作る渓谷は深く、31mもあるそうです。下の写真は上流方面を見ています。
橋の袂から遊歩道を下に降ります。
両岸から何層にも張り出した刎木で橋が支えられているのがよく分かります。刎木には小さな屋根が付けられていて、腐食を防止しているそうです。
明治天皇御召換所址碑の立つ広場を通り街道を進み、日本三奇橋のゲートをくぐります。
ゲートを過ぎると国道20号との交差点、新猿橋西交差点に出るので、右折して国道に入ります。
猿橋宿
猿橋小入口交差点が見えてきました。猿橋の街に入ったようです。
かつての猿橋宿は猿橋を見学する人々で賑わっていたと言われています。しかしながら、昔の街道筋の面影はありません。
猿橋駅入口を通過します。
駅入り口を過ぎると街道は左へ大きくカーブします。カーブの右手角には阿弥陀寺があります。寺の門柱の脇には、一里塚の木柱が立っています。文字が完全に消えてしまっています。殿上の一里塚で、日本橋から数えて22里目の一里塚です。
一里塚も先、山梨中央自動車の前を右に入ります。
喧騒な国道から抜けて、静かな街道歩きができます。右手下には桂川の流れが見えてきます。
ここまで歩くと、背中は汗をかいてきましたが、湿度が低いせいか顔には汗をかいていません。
柿の木の向こう、山の上には東京電力駒橋発電所の施設が見えてきます。
しばらく歩くと、街道と桂川の間に、発電所施設が見えてきます。駒橋発電所は明治40年(1907年)に稼働しました。日本で初めて高電圧で長距離送電を行ったそうです。
発電所の水圧鉄管の脇を通ります。間近で見るとかなり迫力があります。先ほど、山の上に見えた施設から水を落としているようです。
日本は山と水の国、最近騒がれているエネルギー問題に対して水力発電をもっと見直すべきかもしれませんね。
水圧鉄管の脇から左へ入り、坂道を上ります。
桜並木の脇を歩くと正面に中央本線の線路が見えてきます。10月だというのにセミの声が聞こえた気がしました。
中央本線の踏切を渡ります。第五甲州街道踏切と記されています。
その先で、国道20号と合流します。
すぐに、横尾橋バス停のところで右に入ります。
駒橋宿
駒橋宿の静かな町並みです。駒橋宿には本陣も脇本陣も置かれていませんでした。
右手には厄王大権現の境内があります。街道脇には甲州街道駒橋宿の碑が立っています。
ここ厄王大権現は、第二次大戦の大月空襲の際に、爆撃で吹き飛んだ大石が境内に落ちて、周囲の住民を守ったという謂れがあります。
その先で、国道20号の旧道と合流します。
合流点にあるコンビニの先に、旧旅籠橿屋(かしや)跡があります。門柱には「橿屋」と記されています。
国道を歩いて5分ほどで、街道は右の道に入ります。
これまで街道の右手に時々見えていた岩殿山が、目の前に大きく現れます。150mもある岩壁が特徴的です。岩殿山には甲斐の国衆 小山田氏の居城がありました。天正10年(1582年)織田信長の甲斐国侵攻の際、武田氏家臣の小山田信茂が織田家に寝返り、武田氏滅亡に追いやった話は有名です。
小菅村へ抜ける国道139号の高架下をくぐります。
やがて、ブロック敷きの住宅街の道に変わり、大月駅ロータリに出ます。