今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(1)日本橋~品川宿~蒲田 その1

 

2021年12月18日

 

日本橋

 

 今日から東海道を歩きます。現在、甲州街道を歩いて韮崎まで来ました。ここから先は冬になると寒いし、雪も降ったりするかもしれないので、暖かくなったら再開しようと思っています。その間は、雪の少ない関東地方の街道歩きとなりますが、そろそろ東海道歩きを始めてもいいかなあと思い立ちました。

 かなり寒い朝、街道歩きとしては4度目の日本橋に立ちます。今日は冬型の気圧配置が強まり、信越地方では本格的な雪になっているようです。このため、関東地方でも北風が強まっています。天気予報でも最高気温は8℃とされています。

 9:05に日本橋を南へ向けて出発します。

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 すぐの交差点は日本橋交差点です。直進方向が東海道で国道15号、中央通り、右方向が甲州街道国道1号となります。右折して甲州街道を通ったのはちょうど2年前です。

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 高島屋前を歩きます。この辺りは、まだ、人通りはまばらです。

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 日本橋交差点から国道15号を歩くこと20分弱で京橋交差点に出ます。正面には首都高速の高架橋が横たわっています。

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 高架の脇右手には「江戸歌舞伎発祥之碑」と記された石碑が立っています。寛永元年(1624年)に猿若勘三郎がこの地で猿若座を開いたのが江戸歌舞伎の始まりと言われています。

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 その脇には「京橋大根河岸青物市場跡」碑が立っています。江戸初期には京橋川付近に青物市場が開かれ、特に大根が多かったので京橋大根河岸市場と呼ばれていました。明治から昭和にかけて、多くの問屋が集まり、大きな市場に発展しましたが、昭和10年(1935年)に東京卸売市場が開設されるとともに、築地へ移転しました。

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 東海道を横断して東側へ移動します。

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 首都高速の手前の歩道脇には明治8年(1875年)に架けられた京橋の親柱が立っています。木橋から石橋に架け替えられました。もう1本の親柱が通りの西側にも立っています。

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 高速道路の先には、大正11年(1922年)に架けられた親柱が立っています。灯りがともされるようになっていました。なかなか瀟洒なデザインです。

 京橋川は昭和34年(1959年)に埋め立てられ、その上を高速道路が通るようになりました。

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 銀座2丁目の歩道の脇には銀座発祥の地の碑が立っています。この地には銀貨鋳造所、銀座役所がありました。

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 銀座4丁目交差点を通過します。さすが、人通りが多いです。

 銀座和光ビルです。現在の建屋や時計塔は昭和7年(1932年)に竣工しました。堂々としたビルです。恥ずかしげもなく、しっかりと写真を撮りました。

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 銀座7丁目付近です。正面には再び首都高速の高架が見えてきます。

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 高速道路の下にはかつて汐留川が流れていましたが、昭和38年(1963年)に埋め立てられ、ここも上を高速道路が通るようになりました。

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 かつては、東海道には汐留川を渡る新橋が架かっていました。宝永7年(1710年)、朝鮮通信使が通るということで、見附門が作られました。芝口御門です。この時、新橋は芝口橋と名前が変えられましたが、享保9年(1724年)に起きた芝口御門の火事とともに橋が焼け落ち、再建された橋は新橋の名に戻されました。芝口御門はその後も再建されませんでした。

 高速道路の脇には、大正14年(1925年)に架け替えられた新橋の親柱が残っています。

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 その先で、ゆりかもめの新橋駅の下をくぐります。

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 さらに、新橋駅脇のJRの高架をくぐります。

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 JRの高架をくぐると環二通りとの交差点、東新橋一丁目交差点を通ります。交差点を渡った角に赤い鳥居の日比谷神社があります。もとは現在の日比谷公園内にあったそうです。虫歯にご利益があると言われています。

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 浜松町一丁目交差点を通過して浜松町に入ります。だいぶ人通りも少なくなりました。

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 大門交差点を通ります。右手には増上寺の三解脱門が見えます。

 交差点先のビルの前には「濱松町 町名由来」の説明板が立っていますが、文字がかすれて読めません。浜松町の由来は、ざっと言うと、この地を治めた名主の出身が遠江浜松だったからだそうです。

 さらに歩くと、三度、高速道路の下をくぐります。古川に架かる金杉橋を渡ります。広重の錦絵には、金杉橋から海が描かれています。河口近くにあったようです。

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 橋を渡ると、日本橋から4kmの標識が立っています。この付近には東海道最初の一里塚があったと言われていますが、場所は特定されていません。

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 これまで、都内起点の街道歩きは12月初旬が多かったのですが、いつもイチョウの色づきが見頃でした。今回は12月の中旬、見頃を少し過ぎてしまったようです。

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 左手、田町駅近くには「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見之地」の碑があるようですが、現在、背後に立つビルの立て直しのために、別の場所に保管されていると工事現場の塀に貼ってありました。西郷隆盛勝海舟の会見は慶応4年(1868年)、この地にあった薩摩藩蔵屋敷で行われました。

 その先で、札ノ辻交差点に到着します。

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 歩道橋の手前の横断歩道を渡り、右手からの三田通りと交差する角に札ノ辻の説明板が立っています。江戸時代の初めにこの地に高札場が立っていて、札ノ辻と呼ばれていました。また、元和2年(1616年)には芝口門も造られました。この門からは近くに海を望むことができ、眺めの良い場所でした。その後、高札場は天和3年(1683年)に高輪の大木戸付近に移され、芝口門は宝永7年(1710年)に先ほど通った新橋へ移されました。

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 横断歩道で三田通りを渡り、さらに、歩道橋を使って街道の左側へ戻ります。

 歩道橋の上から振り返ると、東京タワーを見ることができます。

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 再び、国道15号を歩き始めます。通りの反対側の台地の上には御田八幡神社が見えます。和同2年(709年)東国の鎮護神として鎮祀され、現在の場所に鎮座したのは寛永5年(1628年)だそうです。歴史のある神社です。

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東海道(1)日本橋品川宿~蒲田 その2へ続きます。