2021年12月25日
蒲田
1週間ぶりに京急蒲田駅前に立ちます。明け方まで続いていた雨も上がり、晴れ間も見えてきました。今は少々寒いですが、予報では10℃を越えるようです。
9:05に国道15号を川崎に向けて歩き始めますが、まずは、駅前の歩道橋で国道の左側へ渡ります。
すぐに、環八通りとの交差点、南蒲田交差点を通過して、六郷地区に入ります。この辺りは、車道も歩道も広く取られています。
雑色駅入口交差点を通ります。京急線は国道15号と並走していますが、雑色駅は右に入ったすぐのところにあります。
京急蒲田駅を出発してからおよそ30分で左手にある六郷神社前に着きます。六郷神社は六郷一円の総鎮守とされています。
古くは、天喜5年(1057年)、源頼義、義家親子がこの地で源氏の白旗を掲げて軍勢をつのり、石清水八幡宮に武運を祈願したところ、前九年の役に勝利しました。その後、石清水八幡宮から勧請して八幡宮を創建したと言われています。
六郷神社の前から左手の側道に入ります。
この辺りに一里塚があったと言われていますが、場所は特定されていません。六郷の一里塚で、日本橋から数えて4里目の一里塚です。
国道15号は多摩川に架かる六郷橋への上り坂に入りますが、東海道はその側道を直進します。
多摩川の土手の手前で六郷土手交差点に到着します。
ここで、川崎宿に詳しいAさんと合流するために、交差点を右折して京急六郷土手駅へ向かいます。ここからはAさんの案内で川崎宿を巡ります。
駅から六郷土手交差点へ戻る途中、まずは公園の手前から右へ入り、止め天神に寄ります。多摩川の土手のすぐ脇に建っています。
正式には北野天神ですが、江戸の昔、八代将軍徳川吉宗の乗った馬が暴走した際、天神様のご加護で落馬を止めたという謂れがあります。このため、落馬止め天神と呼ばれるようになりました。学問の神様だけでなく、災いや痛みを止めるというご利益もあると言われています。
境内に入る脇には、六郷の渡し跡の説明板が立っています。中世末から橋を架けては流されが繰り返され、貞享5年(1688年)に橋が流されてからは、明治になるまで渡し舟が使われました。
隣接する公園には、大正14年(1925年)に架けられた旧六郷橋の橋門と親柱が保存されています。大正時代の建造物は意匠性が高いですね。
六郷土手交差点に戻り、国道の左手側にある階段を上り、六郷橋の歩道に入ります。
六郷橋を渡ります。河川敷は運動公園になっていて結構広いです。
多摩川の川幅は思ったほど広くはないように見えます。大都市圏を流れる川は治水も進んでいるのでしょうね。
おおよそ7分で六郷橋を渡り切りました。神奈川県川崎市に入ります。
渡り切った橋の欄干にあるのは渡し舟のモニュメントです。
橋の袂にあるスペースには「明治天皇六郷渡御碑」が立っていて、当時の状況を描いたリリーフ画が飾られています。明治元年(1868年)、明治天皇が多摩川を渡る際、23艘の舟で舟橋が架けられたそうです。
ちなみに、吉宗の時代にベトナムから長崎に渡った象が将軍家に献上される際、多摩川を渡る時も舟橋が架けられました。
六郷橋を振り返ります。
川崎宿
土手から降りると、東海道は標識に従って右折して、国道15号の下をくぐります。
右折する十字路の反対側の角には「万年横丁・大師道」の石碑が立っています。また、石碑の道を隔てた手前側には「万年横丁から大師道へ」の説明板があります。見逃しそうなところに立っています。
かつて、このあたり、川崎宿の江戸側の入り口付近には茶屋が立ち並び、川崎大師参詣の人々も相まって、大変賑わいました。その中でも、奈良茶飯を出していた万年屋は宿場一の茶屋として有名になりました。
十字路を左へ入る道は大師道と呼ばれ、この辺りは万年横丁とも言われていました。
左手へ少し歩くと、公園の手前の空きスペースには六郷渡しの説明文と「江戸名所図会 六郷の渡し(玉川)」を切り絵にしたレリーフが立っています。
街道に戻り、国道の下をくぐると右手には万年屋を描いた「江戸名所図会」の絵と旅籠街の説明板があります。往年の賑わいが描かれています。
川崎の街中では、街道に沿って「旧東海道」と記された標識が要所要所に立っています。
街灯には川崎宿の幟が掛けられています。川崎宿が制定されたのは元和9年(1623年)で、2023年でちょうど400年を迎えます。このため、2023年に向けて川崎宿を盛り上げていこうというイベントが立ちあげられています。
右手には田中本陣跡があります。田中本陣は寛永5年(1628年)に設けられた宿内最古の本陣でした。江戸中期の当主、田中休愚は六郷川の渡し舟権を譲り受けるなどして、宿場の財政再建に尽力しました。今日の川崎の発展に大きく寄与した人と言われています。
残念ながら、マンションの工事中で説明板等は撤去されていました。
その先、駐車場の前にある説明板には、宝暦11年(1761年)の大火で小土呂から六郷渡しまでの街並みが失われたと記されています。
すぐの東海道川崎宿交差点角にある菓寮東照で、万年屋の奈良茶飯にちなんだ「奈良茶飯風おこわ」をいただきました。栗の甘露煮、大豆、粟、小豆をお茶で炊き上げたおこわごはんで、シジミ汁と奈良漬も添えられています。素朴な味ですが、街道歩きのお腹を満たしてくれました。そうそう、お汁粉も食べてしまいました。
東照の壁には助郷会所の説明板があります。助郷制により近隣の農村より集められた人馬が集まる場所でした。助郷村では役務の負担が大きく困窮を招く原因になっていました。