今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

日光西街道(4)文挟から下今市 その1

 

2019年4月6日

 

文挟

 

 スギ花粉の季節も過ぎ、暖かくなってきたので、街道歩きを再開することにします。本日は例幣使街道と日光西街道の最終区間である今市追分まで歩く予定です。天気は晴。最高気温は15℃くらいになるらしいです。宇都宮経由で文挟駅に9:00に到着しました。9:15に本日のスタート地点である文挟交差点へ向かいます。

f:id:mame-lantern:20210301212207j:plain

 

 駅舎を出て、右手の歩道を歩くと、すぐに、文挟交差点に到着します。

f:id:mame-lantern:20210301213205j:plain

 

 左手角には大谷道との追分道標が立っています。

f:id:mame-lantern:20210301213232j:plain

 

 右折して日光西街道を歩き始めます。

f:id:mame-lantern:20210301213548j:plain

 

 

文挟宿

 

 その先、信号のあるT字路辺りから文挟宿が始まります。

f:id:mame-lantern:20210301214023j:plain

 

 左手、日光ろばたづけ店辺りに本陣がありました。

f:id:mame-lantern:20210301214153j:plain

 

 その道を隔てた反対側には、問屋場がありました。田辺商店の看板には「問屋」と記されています。

f:id:mame-lantern:20210301214324j:plain

 

 宿場の入口から歩いて5分で、道は大きく左へカーブして杉並木に入ります。

f:id:mame-lantern:20210301220620j:plain

 

 左へカーブする正面には二荒山神社があります。日光二荒山神社鹿沼今宮神社と同じ御祭神が祀られています。

f:id:mame-lantern:20210301220802j:plain

 

 神社の脇には、文挟宿郷倉があります。江戸時代、飢饉対策として米・麦・粟・稗などを貯蔵するために郷倉が建造されました。この郷倉によって慶応年間の凶作時には、板橋・文挾宿等九ヶ村の人々が119石を拝借し餓死を免れたと言われています。

f:id:mame-lantern:20210301220915j:plain

 

 ここから特別保護地域の杉並木が始まります。車の交通量は結構あります。

f:id:mame-lantern:20210301221107j:plain

 

 しかしながら、杉並木の外側には歩道があり、安全に歩けます。

f:id:mame-lantern:20210301221228j:plain

 

 左手奥には日光の山々が望めます。まだ、雪が残っています。日光も近くなりました。

f:id:mame-lantern:20210301221344j:plain

 

 だんだん、側道もけもの道になり、杉の小枝も散乱するような状態になりますが、まだまだ、歩けます。

f:id:mame-lantern:20210301221706j:plain

 

 やがて、杉並木が途切れ、明るいところに出ます。

f:id:mame-lantern:20210301221846j:plain

 

 ここでも日光の山々を望むことができます。写真をもう1枚。

f:id:mame-lantern:20210301221948j:plain

 

 側道は一旦杉並木から続く国道121号と合流するので、車道を横断して右手の歩道を歩きます。その先で、再び杉並木に入ります。

f:id:mame-lantern:20210301222058j:plain

 

 杉並木に入ってすぐの右手に板橋の一里塚があります。日本橋から数えて30里目の一里塚です。一つ手前の小倉の一里塚では標柱が抜かれていましたが、ここは、折られて放置されています。いったい、どうなっているのでしょうか。

f:id:mame-lantern:20210301222203j:plain

 

 標柱のちょっと先から振り返ると、東塚は一里塚らしい状態で残っていましたが、西塚はよく分かりませんでした。

f:id:mame-lantern:20210301222329j:plain

 

 やがて、杉並木がなくなり、板橋地区に入ります。

f:id:mame-lantern:20210302210045j:plain

 

 

日光西街道(4)文挟から下今市 その2へ続きます。

 

日光西街道 歩いた行程表はこちら