2022年4月9日
原宿
吹上交差点を過ぎると、右手には浅間神社があり、道の反対側(こちら側)には原宿の一里塚跡の碑が立っているはずですが、見当たりません。おそらく歩道脇に工事のフェンスが続いているので、それに隠れてしまっているのかもしれません。日本橋から数えて11里目の一里塚です。
さらに、国道1号を進みます。渋滞しています。
センターの分離帯には様々な木々が植えられています。
名残の松が1本だけ立っています。かつては松並木が続いていました。
影取町交差点の角に影取立場跡の碑が立っています。交差点から左手に延びる道は鎌倉へ続く道でした。
影取町第二歩道橋をくぐると、車道は藤沢へ向かう道と分岐します。歩行者は左側の歩道をそのまま進みます。
左手には諏訪神社があります。この辺りには鉄砲宿という地名があり、武神の諏訪神社が勧請されたと言われています。境内にはクスノキの大木が立っていますが、残念ながら大きすぎて、写真に入り切れませんでした。
国道1号と県道30号との分岐点の立体交差が見えてきます。
その先、藤沢バイパス出口交差点で、左手の県道30号へ入ります。
この辺りの桜もそろそろ終わりです。
鉄砲宿バス停の裏には戸塚宿周辺散策案内板が立っています。
藤沢市に入ります。車道と歩道の間に並木が続き、どこか日光街道と似た雰囲気がありますね。
車道より一段高い歩道が続きます。
道の反対側の歩道には旧東海道松並木碑と松の木が見えます。横断歩道を渡って石碑へ向かいます。
松並木跡碑です。旧東海道では松並木が続いていましたが、この辺りの松の木は、昭和35年(1960年)頃から広がった松喰虫の被害で大方が枯れてしまいました。
その先で遊行寺坂を下ります。藤沢方面が渋滞しています。
藤沢の中心地が見えてきました。
坂の途中には藤沢の一里塚跡碑があります。日本橋から数えて12里目の一里塚です。
現代の遊行寺坂は切削して傾斜が緩やかになりましたが、当時の一里塚は切通の上に立っていました。
さらに、左手には諏訪神社があります。正応2年(1289年)、諏訪大社から勧請したのが始まりで、遊行寺の守護神とされていました。
藤沢宿
道の反対側には藤沢宿の江戸方見附跡の碑が立っています。ここから藤沢宿が始まります。
その向こうは遊行寺です。遊行寺は時宗の総本山で、正中2年(1325年)に呑海上人が開きました。正式には清浄光寺と言います。本堂は関東大震災後に再建されたものです。
遊行寺坂を下り切り、イイジマ薬局の角を右折して桝形に入ります。
県道から右へ入るとその先の道は藤沢広小路と呼ばれ、日本三大広小路の一つとされています。広小路とは火災の延焼を防ぐために道幅を広げたもので、上野広小路や名古屋広小路が有名です。
広小路の突き当りの右角には高札場が復元されています。
ここはふじさわ宿交流館となっています。
交流館の中には藤沢宿についての案内が展示されています。休憩所もあります。藤沢宿の模型もあります。下の写真は大鋸橋からの遊行寺方面の眺めです。
東海道から外れ、交流館を右折すると正面には遊行寺(清浄光寺)の黒門(惣門)が立っています。かなり立派な冠木門ですね。両脇に立っている青銅の燈篭も見応えがあります。
黒門から続く参道の桜並木は満開です。
交流館まで戻り、東海道を直進します。すぐに、境川に架かる赤い遊行寺橋を渡ります。かつては大鋸橋と呼ばれていました。
遊行寺橋から南側にある藤沢橋を望みます。藤沢橋は県道30号に架かる橋です。
東海道は橋を渡った突き当りのT字路を右に入ります。その前に、T字路を左折して寄り道をします。すぐの左手、川沿いには江の島弁財天道標が立っています。T字路から左折する道は江の島道と呼ばれていました。江の島道沿いには複数の道標が立っていたそうです。
T字路に戻り、東海道に入ります。かつてここには江の島一の鳥居が立っていました。広重の東海道五十三次の浮世絵にも描かれています。
東海道に入ると右手には桔梗屋の店蔵が立っています。桔梗屋は江戸時代から茶・紙問屋を営んでいました。現在の建物は明治44年(1911年)に建てられたものです。
その先には蒔田本陣跡の説明板が立っています。この辺りが藤沢宿の中心地でした。