2022年5月6日
酒匂川
酒匂川を渡ります。往時、春から秋にかけては人足による徒渡しでした。歌川広重の東海道五十三次内小田原酒匂川にもその様子が描かれています。
酒匂川を渡り終えた先で、渡し跡あたりへ向かいます。最初の交差点、土木センター入口を右折して、すぐの路地を右へ入ります。
路地を進むと八幡神社の前で右へ曲がります。
八幡神社は応神天皇をご祭神として祀っています。巨木に囲まれた静かな境内です。
神社から少し歩くと酒匂川岸に出ます。
渡し場付近から、先ほど立った対岸を望みます。
街道を戻り、突き当りを左折して、土木センター入口交差点に出ます。
交差点で、酒匂橋から歩いてきた国道1号を横断して直進します。さらに、すぐの十字路を右折します。
右折したすぐの右手には、東海道分間延絵図をベースにした説明板が立っています。この辺りは、豊臣秀吉の北条攻めの際、徳川家康やその家臣が布陣した場所で、説明図には大久保忠世や榊原康政の陣場跡が示されています。
また、新田義貞の首塚があるようですがよく分かりませんでした。延元3年(1338年)、越前の藤島で戦死した新田義貞の首級は京都で晒されていましたが、家臣の宇都宮泰藤が首級を奪還して、故郷の上州まで運ぶために東海道を下ってきました。しかし、泰藤はこの地で病に罹り、これ以上進めなくなってしまい、やむなく主人の首級をこの地に葬りました。
すぐに常剱寺入口交差点で国道1号と合流します。
山王橋で山王川を渡ります。
橋を渡った右手には山王神社の鳥居が見えます。徳川家康が小田原北条攻めの際に、戦勝を祈願しました。
小田原宿
その先には東海道小田原宿の標柱が立っています。
街道の右手には小田原城址江戸口見附跡の碑が立っています。ここには小田原城下を囲む総構の土塁がありましたが、東海道を通す際に、土塁を壊して桝形を作りました。
道の反対側にも江戸見付と一里塚址碑が立っています。小田原の一里塚で、日本橋から数えて20里目の一里塚です。
小田原宿に入ると、多くの歴史的町名碑を見ることができます。側面には説明文が記されています。まずは新宿町(しんしゅくちょう)碑です。城下の出口、山王口に接していたので、藩主が帰城する際の出迎えの場所でした。
街道は新宿交差点を左折します。
次のT字路を右折します。角には「小田原 かまぼこ通り」と記された標識が立っています。
右折すると蒲鉾屋さんが3軒並んでいます。
万町(よろっちょう)碑があります。この地は古くから「よろっちょう」と呼ばれていました。七里役所と呼ばれる紀州藩の飛脚継立所がありました。
左手には古清水脇本陣跡があります。かつては小清水旅館が建っていましたが、現在は高齢者向けマンションに建て替えられています。その中に脇本陣資料館があるようです。
その隣は清水金左衛門本陣跡です。入口には説明板が立っていて、奥の広場の右手には明治天皇小田原行在所址の碑が立っています。明治天皇は5回ほどここに宿泊されたそうです。
本陣の先には、小田原宿なりわい交流館があります。出桁造りの建屋は昭和7年(1922年)に建築された網問屋を整備したものです。ここで小田原の観光地図を頂きました。
この辺りは宮前町と呼ばれ、町の中央には城主専用の出入り口である浜手門や高札場などがあり、本町とともに小田原宿の中心地でした。
片岡永左衛門本陣跡の碑が立っています。
本町の碑があります。北条氏時代、この町は「通小路」と呼ばれていましたが、江戸時代に入ると、この町を基準に城下の町人町を左右に町割りを行い、本町と改められました。隣の宮前町とともに小田原宿の中心地でした。
御幸の浜交差点に到着しました。小田原城に寄らないわけにはいかないので、交差点を右折して、小田原城に向かいます。
三の丸小学校の脇を抜けると堀端に出ます。角の石垣は櫓台で明治維新には取り壊されてしまいました。かつてこの上には二重櫓が建っていました。
土橋を渡り、馬出門から城内に入ります。馬出門は桝形が形成されていて、左手にある内冠木門をくぐって馬屋曲輪に入ります。
土橋から、隅櫓の向こうに赤い学橋を望みます。隅櫓は関東大震災で崩壊した後再建されたものです。学橋は二の丸に小学校を移転する際に新しく造られたそうです。
馬屋曲輪には登城する人の馬をつないだ馬屋がありました。
馬屋曲輪の西側はお茶壷曲輪と呼ばれています。お茶壷曲輪から住吉橋を望みます。住吉橋は平成2年(1990年)に当初の姿である木橋として再現されました。
住吉堀の内側は二の丸になります。
馬屋曲輪から住吉橋を渡って二の丸へ入ります。