今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

甲州街道(13)富士見から茅野 その3

 

2022年10月2日

 

金沢宿

 

 金沢宿に入って、金沢交差点を渡った左手には本陣跡があります。本陣の説明板と明治天皇金澤行在所址の碑が立っています。

 甲州街道が整備された頃、宿場はこの先の権現の森付近にあり、青柳宿と呼ばれていました。しかし、度重なる宮川の水害や大火のため、慶安4年(1651年)に現在の位置に移され金沢宿と名を改められました。

 本陣は、当初、小松家があたっていました。4代目三郎左衛門は隣の茅野村との山論で町民の先頭に立って働いていたところ、高島藩は三郎左衛門が伝馬業務を怠ったという理由で処刑してしまいました。それ以降は白川家が本陣問屋業務を引き継ぎました。

 

 左手には旧旅籠の松坂屋が立っています。南側に架けてある古い看板には「HOTEL」の文字が書かれています。

 

 松阪屋の建屋は明治20年(1887年)の火災の後に再建されたものです。2階の曲線を描く柵がお洒落です。

 

 右手には旧馬宿が立っています。私設の中馬荷物問屋の役割を果たしてきました。

 山岳地帯の多い信濃地方では中馬と呼ばれる私設の荷駄輸送手段が発達してきました。当初は農民の小遣い銭稼ぎだったそうですが、公設の宿継ぎに比べ安く効率の良い輸送ができたために段々とその需要が高まり、専業とする者も出てきました。これでは公認の問屋にとっては死活問題となります。このため争い事も増え、訴訟沙汰にもなったこともあったそうです。しかしながら、幕府は物流量拡大による需要の高まりで、やがては中馬を認めざるを得なくなりました。

 

 馬宿の前には馬つなぎ石があります。

 

 火の見やぐらの脇から右の道へ入ります。分岐には右へ入る案内板があります。

 

 民家の合間の道を進みます。

 

 やがて、宮川に突き当たるので、川沿いを歩いて国道に向かいます。本陣問屋を務めていた小松三郎左衛門は藩命でこの辺りの河原で処刑されました。近くには彼の遺徳を偲び如意輪観音が祀られています。

 

 国道の通る金沢橋の手前には石仏石塔群があります。

 

 金沢橋を渡ってすぐの左へ延びる道は高遠道で、高遠藩、飯田藩の参勤交代に使われた街道でした。甲州街道を参勤道として通行を許されていたのは高遠藩、飯田藩、高島藩の3藩だけでした。

 

 金沢橋を渡ると矢ノ口交差点で街道は左へカーブしますが、正面には権現の森が見えます。

 

 権現の森には金山権現を祀った石祠があります。承応3年(1654年)に建立されました。祭神は金山彦命武田信玄の開発した金鶏金山と関係があるとも言われています。

 

 左へカーブした先、矢ノ口バス停の前で、甲州街道は左の道へ入ります。分岐脇には旧甲州街道と青柳宿の説明板が立っています。

 

 ソバ畑と田んぼが広がっています。

 

 直線の道が続きます。この辺りはかつての青柳宿だったのでしょうか。

 

 クランクに沿って道なりに進みます。

 

 さらに、田んぼの中の直線道を進みます。

 

 大きな寒天の里の看板が見えます。茅野市付近では冬の寒さを利用した寒天作りが盛んに行われています。寒天を天日干しする風景が冬の風物詩となっています。

 

 道はT字路に突き当たるので左へ入り、一里塚跡を目指します。

 

 これまで歩いてきた道を振り返って眺めてみました。快晴の天気の元、田園風景が広がっています。

 

 再び宮川を渡ります。

 

 宮川の流れはきれいです。

 

 宮川を渡ったところで、ホテルメルヘンと川の間の、道とは言えない草ぼうぼうの通路に入ります。一応標識はありますが、あまりにも雑草が生い茂っているので遠回りをしようか、ちょっとだけ躊躇しました。

 

 とりあえず草むらに分け入って上っていきます。

 

 やっとの思いで田んぼの脇の道に降り立ちました。一里塚跡は右手の宮川近くにあるはずです。

 

 

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