今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

甲州街道(14)茅野から下諏訪 その1

 

2022年10月15日

 

茅野

 

 いつものようにあずさに乗って茅野駅に降り立ちました。天気は晴れ、気温は23℃くらいまで上がる予報ですが、すでにほどほど暑いです。いよいよ甲州街道歩きの最終日となりました。今日は友人のSさんと一緒に歩きます。10時ちょうどに歩き始めます。

 

 駅前にある複合商業施設ベルビアの南側を回り、右折して甲州街道へ入ります。

 

 左手には諏訪大社上社の参道口に立つ大鳥居があります。ここから上社前宮までおよそ2.5km、その先本宮までは、さらに、2kmほどの位置にあります。

 

 すぐに道は三方に分かれます。甲州街道は左の道に入ります。

 

 車通りの少ない静かな道です。

 

 甲州街道は高台を通っています。上川の造る平地から10mくらいの高低差があります。

 

 スタート地点から10分ほどで国道20号に合流します。上原交差点です。

 

 上原八幡神社の前を通過します。八幡神社鎌倉時代の弘長年間(1261~1264年)に諏訪盛重が鎌倉鶴岡八幡宮より勧請したと言われています。江戸時代には高島藩主が参勤交代の際に、この場所で道中の安全祈願を行った後、馬から籠に乗り換えて江戸へ向かいました。

 

 左手には、葛井神社へ続く参道入口があります。

 

 道端には双体道祖神が祀られています。

 

 右手には頼岳寺の参道入口があります。頼岳寺は寛永8年(1631年)に高島藩主諏訪頼水により諏訪家の菩提寺として開かれました。

 ここから上原城址へも行けるようです。上原城は文正元年(1466年)頃に諏訪信満がこの裏の金毘羅山に構えた山城で、以降、諏訪大社上社神職であった諏訪氏はこの場所で諏訪地方を統治してきました。諏訪頼重の代、天文10年(1541年)に義兄の武田信玄に攻め入られ、頼重は上原城を放棄して桑原城へ逃げましたが、そこで信玄に捉えられました。その後、武田氏の郡代が置かれ、信濃侵攻の拠点となりましたが、天正10年(1582年)、織田・徳川連合によって武田氏が滅亡された際に、廃城となりました。

 

 上原交差点から歩くこと20分ほどでスバルの先の路地を右へ入ります。郵便局の入り口の案内も立っています。

 

 中央本線の下をくぐります。

 

 坂道を上り、T字路を左折して、さらに、坂道を上っていきます。

 

 坂道の先で右からの道と合流します。合流の角には、大門追分道標と呼ばれる道標が立っています。下の写真は右側の道が今上ってきた街道で、下諏訪方面を背にして見ています。常夜燈には「右東京道 左大門道」、小さい方には「右江戸道 左山浦道」と記されているようです。

 左の道が大門街道です。この先、白樺湖北にある大門峠を越えて長和町の大和橋交差点で中山道と合流します。

 

 道端ではりんごが赤く実っています。

 

 街道は断層崖の縁に沿った高台を進みます。諏訪湖は、というとまだ見えません。

この辺りから諏訪市に入ります。

 

 だいぶ風化している双体道祖神です。

 

 少しだけ街道の雰囲気を残します。

 

 追分から10分弱で火燈(ひとぼし)公園があります。公園の中には説明板が立っています。

 ここ神戸村では御柱年の盆の15日に、裏にある山の斜面に設けた火燈場で鳥居などの形に火を灯して諏訪大社に奉納していました。鳥居の他に、三ツ星、五王ノ鬼塚があり、これら三か所のほぼ中心の位置にこの公園を造ったと記されています。

 

 右手には、武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重菩提寺である頼重院があります。

 

 その先の左手には一里塚碑と説明板が立っています。神戸の一里塚で、日本橋から数えて51里目の一里塚です。

 

 神戸地区を歩きます。

 

 さらに、その先の半鐘が立っている袂には常夜燈が立っています。火袋が木で造られています。

 

 街道から西へ向かう道は上川に向かって緩やかに下っています。

 

 さらに、神戸地区を進みます。

 

 街道の中央に常夜燈が見えてきます。

 

 

甲州街道(14)茅野から下諏訪 その2へ続きます。

 

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