今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

今へ続く甲州街道を歩くと

 

今へ続く甲州街道を歩くと

 

 甲州街道五街道の中で最後に整備が完成しました。明和9年(1772年)とも言われています。よく、江戸から甲府までを甲州表街道、甲府から諏訪までを甲州裏街道と呼ぶことがあります。表と裏でその成り立ちは違っていたようです。

 江戸から甲府までの街道は、当初、徳川将軍家の軍事道路とされていました。ひとたび戦乱が起きて江戸城が攻め入られ、お城を放棄せざるを得なくなった際に、将軍家が甲府城へ退却する計画があったと言われています。将軍家を守るため、現在の番町には旗本の大番組が、新宿の百人町には鉄砲隊が、八王子には郷士で組織された千人同心が配置され、甲州街道沿いの守りを固める体制が出来上がっていました。

 

 一方、甲府から諏訪までの街道は、戦国時代、武田信玄諏訪郡を所領とした後、諏訪は信玄の信濃攻略の最前線拠点となっていました。このため、甲府と諏訪の間は軍事道路として整備され、しだいに人々や物資の往来が盛んになっていったと言われています。

 

 甲州街道を歩いた跡を振り返ると、甲府-下諏訪間の裏街道はひなびた感があり、とても良かったです。甲州街道古道はらぢみち、路傍の石仏や石塔たちなど往時の街道筋の趣を今に残しています。

 

 下諏訪町のホームページを見ると、諏訪湖の湖畔から100km離れた富士山が、遮るものもなく見えるポイントがあるそうです。

 諏訪湖付近では糸魚川ー静岡構造線(糸静線)と中央構造線が交わり、糸静線に沿って諏訪湖の北側と南側に断層が分かれて走っています。諏訪湖はこれら断層の間で陥没して、水が溜まった断層湖であると言われています。

 また、諏訪湖のある諏訪平野は糸静線の東側からフィリピン海プレートによって北西に押す力が働き、西側ではユーラシアプレートによって逆方向に圧がかかり、その結果、平野部が押し広げられました。同時に糸静線に沿って60kmにわたる溝地形ができ、その先には富士山がそびえ立っています。このため、諏訪平野と溝地形と富士山が一直線並ぶという、なかなか珍しい地形を形成しています。

 糸魚川ー静岡構造線や中央構造線とか、フィリピン海プレートユーラシアプレートとか日本列島創世のスケールの大きい話に関わる場所だったのです。下の写真は平岡の一里塚付近の溝地形にあたるものだと思いますが、富士山は見えませんでした。

 

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(2023年8月8日 追記)

 

 新型コロナが5類へ移行されて初めての夏休みに、再び諏訪湖を訪れています。昨日、上諏訪温泉に宿泊して、今朝は諏訪湖を散策(車で)しています。1週間後に行われる諏訪湖の花火大会の準備で、湖畔にある多くの駐車場が閉鎖されていましたが、たまたま、空いていたスペースに、「関東富士見百景」のプレートを見つけました。

 左右の山々が切れる正面に富士山を望むことができるようですが、残念ながら今日は雲がかかっていてその雄姿見ることができません。標高760mとはいえ、周りを山に囲まれたこの盆地で、しかも、100km先の富士山が見えるとは不思議といえば不思議ですね。

 

 

歩いた行程

 

日付   行程
2019-12-14 日本橋⇒初台
2019-12-29 初台⇒調布
2020- 1- 3 調布⇒日野
2020- 1-25 日野⇒高尾
2020-11-14 高尾⇒藤野
2020-11-28 藤野⇒鳥沢
2021-10- 3 鳥沢⇒笹子
2021-10-16 笹子⇒勝沼
2021-10-30 勝沼⇒甲府
2021-11-27 甲府⇒韮崎
2022- 4-23 韮崎⇒台ケ原
2022- 6- 4 台ケ原⇒富士見
2022-10- 2 富士見⇒茅野
2022-10-15 茅野⇒下諏訪

 

 

甲州街道五景

 

 天下の大祭、御柱祭で有名な木落し坂です。糸魚川ー静岡構造線に沿ってできた断層崖から御柱を落とします。

 

 御射山神戸の一里塚です。西塚のケヤキの迫力のあること。

 

 30kmにわたる七里岩です。こちらは、20万年前に起こった八ヶ岳の岩屑なだれによってできた平坦地を釜無川が長年にわたり浸食した浸食崖です

 

 江戸城の土塁とお濠です。石垣とは違った趣があり、いつ見てもゆったりします。

 

 やはり富士山です。三連発で。

 まずは、多摩川に架かる立日橋からの眺めです。

 

 甲斐市の赤坂台地から振り返ると。

 

 釜無川に架かる桐沢橋からの眺めですが、だいぶ霞んでいますね。

 

 

甲州街道 完歩>