2022年11月19日
山中新田
国道1号から別れ、復元整備された趣のある石畳を歩いた街道も終わりに近づきます。舗装道路と並行した道に出ます。これまで歩いた石畳の道と比べるとなんとなく不自然ですね。
その先に、ガードレールのある車道(おそらく、旧国道1号)が見えてきます。突き当りを道なりに左へ曲がります。
突き当りの右手の傍らには雲助徳利の墓があります。説明板には概略以下のように記されています。
雲助徳利はもとは西国大名の剣術の指南役でしたが、大酒飲みのために事件を起こし、お国を追放され、ここ箱根で雲助になりました。ここでは、雲助をいじめる武士を懲らしめたり、手紙を読んだり書いてあげたりして、後にはその中で親分格になったそうです。そんな彼が亡くなった際に、雲助達がお金を出し合い、そのお礼を込めて墓を建てました。
墓石には杯と徳利の絵が描かれています。元々は、先ほど訪れた中山の一里塚あたりにあったそうです。
すぐに、歩道橋の下で、旧国道と合流します。山中地区に入ります。
右手には諏訪駒形神社の鳥居が建っています。ここから山中城へ入ることができるようですが、少し先の史跡入口から入ることにします。
山中地区の町並みです。通る車も少なく静かな通りです。
宗閑寺脇のイチョウが黄色く色づき、青空に映えます。
やがて、旧国道との分岐が現れ、右手の直進方向へ入ります。
右手階段の上には芝切地蔵尊が鎮座しています。
再び旧国道に出ます。東海道はこの道を横断した直進方向ですが、右手にある山中城跡公園に寄り道をします。
右手の広場から山中城に入ります。ボランティアガイドさんが薦めてくれた障子堀探訪コースを見学することにします。
山中城は小田原北条氏が永禄年間(1560年代)に小田原防備のために築いた山城です。天正18年(1590年)に豊臣秀吉が山中城攻めを行い、半日で落城したと言われています。
緩やかな山道を上っていくと見えるのは、西櫓脇の畝堀です。堀の深さは2m、頂部の幅は60cm、傾斜角度は50~60度、堀底から西櫓までの高さが9mもあり、加えて関東ローム層のつるつるした赤土なので、堀の底から這い上がることは不可能だったそうです。
こちらは西の丸と西櫓の間にある有名な障子堀です。美しい幾何学模様ですが、鉄壁な守りでした。
西櫓は西の丸と繋がる馬出で、両脇から木橋と土橋の虎口が設けられていました。この城の馬出は四角形で北条氏の城特有のものだったそうです。武田信玄のそれは丸馬出でした。
さらに、回り込むと絶景が待っています。富士山から駿河湾まで一望できます。
30分ほど山中城跡を散策して、茶屋の裏から東海道に戻ります。
杉木立の中、坂道ではないのですが石畳が続きます。
箱根八里の記念碑が立っています。司馬遼太郎の文章が刻まれています。
ここもいい雰囲気です。
やがて、旧国道1号と合流します。
これは新種のアスレチックですか?
再び、木々の中の石畳を下っていきます。
国道1号の上を渡ります。ここも、橋にも石畳が敷いてあります。
旧国道らしき道を横断します。こちら側には、「ここの横断は危険なので横断歩道まで迂回してください」と注意書きが立っているのですが、横断した先の入り口には何も標識らしきものがありません。正面が本当に旧道の入口なのでしょうか。
半信半疑ながら先の道を直進します。
かなりの急坂を下っていくのですが、石畳もないし、街道の雰囲気は全くありません。道を間違えて入口まで戻ることを考えると最悪です。
しかしながら、疑念が晴れました。下っていくしかないと思った先で、やっと、石畳の道が出てきました。良かったです。やはり、予習は重要ですね。
再び、国道1号を越えます。
その先で旧国道に合流し、左の歩道を進みます。
右手は最近できた観光名所、スカイウォークです。駐車場は車でいっぱいです。
石畳風の歩道を歩き、スカイウォークの入り口の前で左の道へ入ります。