2022年11月12日
奥の茶屋
奥湯本の温泉街を下に見つつ、観音坂を上っていきます。温泉街入口に立つ観音坂碑から先は、あまり急とは言えない緩やかな上り坂となります。奥の茶屋バス停を通過します。
眺めの良い場所に出ます。須雲川を隔てた向かいの斜面では紅葉が進んでいます。
葛原坂の説明板の前を通ります。往時から葛の葉が生い茂る場所だったそうです。
緩やかな坂道を上った先で、箱根新道へ入る交差点を通過します。
さらに、比較的平坦な道を歩くと右手の道路脇には初花ノ瀑の碑が立っています。歌舞伎の演目「箱根霊験記躄(いざり)仇討」で夫の仇討ちの本懐を願い、初花が水に打たれた滝がここから見えるようです。しかし、向かいの山腹は見渡せるのですが、滝があるのかはよく分かりません。
須雲川地区の家並みを抜けると紅葉の山並みが広がります。
左手には須雲川自然探勝歩道の標識が立っています。一見、東海道旧道入口の雰囲気を醸し出していますが、こちらが旧道なのかよくわかりません。ただ、傍らの標石には「女轉シ坂 登り一丁」とは記されています。よくは分かりませんが、このまま県道を進むことにします。
須雲川を渡ります。山中の清流といった感じでしょうか。
須雲川を渡ると、そこから少し急な上り坂になります。道は逆S字を描いて箱根大天狗山神社の鳥居の前を通過します。
さらに急な坂道が続きます。女転し坂の説明板が立っています。あまりの急坂で、馬に乗った婦人が落馬して、亡くなったことに由来すると記されています。
左へ下っていく東京電力畑宿発電所入口の少し先で、右へ入る階段を上ります。ここにも須雲川自然探勝歩道の標識が立っています。先ほどスルーした入口も旧道だったのでしょうか。
傍らには「割石坂」の標石が立っています。曽我五郎が富士の裾野での仇討ちに向かう際、刀の切れ味を試すため、傍らにあった巨石を割ったという謂れがあります。
石畳の坂を上っていきます。途中、江戸時代当時の石畳が残っています。
江戸時代から続く石畳です。
江戸時代当時の石畳を2区間通ると、先ほど別れた県道に出ますが、東海道は右手の道をさらに進みます。
この分岐には「箱根路の移り変わり」の説明板が立っています。説明板には記されていませんが、奈良平安時代の京と東国を行き来する旅人は、三島から御殿場を経て、足柄峠を越えて、国府津へ抜ける足柄路が主街道でした。延暦19年(800年)の富士山の噴火により足柄路は通行できなくなり、新たに箱根路が開かれたと言われています。
水力発電所の送水管がそびえています。水を右手の山から落としているようです。
やがて、旧道は県道に合流します。合流点には接待茶屋の説明板があります。箱根を旅する旅人や馬に湯茶や飼葉をふるまう茶屋を設けるために、江戸呉服町の加勢屋与兵衛の協力により設置されました。箱根東坂のこの付近と西坂は施行平に設けられました。そういえば、中山道の碓氷峠と和田峠にも人馬施行所という名前でありました。
左側の歩道をしばらく歩き、ます釣場の看板の立つ先で旧東海道は左へ入ります。箱根旧街道の標柱が立っています。
杉の林の中を一気に下っていきます。
石畳跡なのか分かりませんが、ガレ場のような石がころがっていて、とても歩き辛い坂道です。加えて、苔も生え、滑りやすく用心して降りる必要があります。このようなこともあろうと、グリップの効く靴を履いてきて正解でした。
やがて、木橋で沢を渡ります。
あたり一帯が湿気の多い場所なのか、苔やらシダやら生えています。
さらに、2本目の木橋を渡ると、街道は石畳の上り坂に転じます。大澤坂と呼ばれています。
この辺りは石畳特別保存地区に指定されていて、江戸初期の石畳施行当時の構造を今に伝えています。ちゃんと排水の機構を持っていたようです。
苔むした上り坂が続きます。
木橋から石畳の道を上ること10分ほどで、家並みが現れ、県道に出ます。畑宿地区です。
畑宿は箱根街道の間の宿で多くの茶屋が並んでいました。山間に佇む町並みではありますが、往時の雰囲気を残すところはあまり見られません。ここは、かつて茶屋本陣があったあたりです。
本陣跡バス停の先の奥まったところには、本陣跡の説明板と旧茗荷屋庭園の説明板が立っています。本陣茗荷屋にあった庭園はとても見事なもので、幕末にアメリカ総領事ハリスがここを訪れ、その美しさに感嘆したと言われています。
また、畑宿は箱根寄木細工でも有名な地区で、その起源は小田原北条時代の頃までさかのぼることができます。寄木細工の工房や店を見ることができます。
こんなモニュメントもあります。
町の外れで県道は大きく右へカーブして反れていきますが、東海道は直進の細い道に入ります。右へ上る階段の先には大黒天で有名な守源寺があります。