2022年12月4日
八幡
八幡交差点から東海道に入り、5分ほど歩くと右手に八幡神社の大鳥居が立っています。大鳥居から続く参道は通れそうにないので、脇を歩くとその先に、二つ目の鳥居が立っています。
八幡神社の社殿です。
社殿の左手を回った奥に対面石があります。治承4年(1180年)、富士川に布陣した平家と対峙するために、この地まで出陣した源頼朝が奥州から駆けつけた源義経と対面しました。二人はこの石に腰かけて再会を喜んだと言われています。
さらに東海道の先へ進みます。長沢中交差点を過ぎると左手に短いながらも松並木があります。江戸時代から続く名残の松並木です。
黄瀬川に架かる黄瀬川橋を渡ります。黄瀬川はここからすぐのところで狩野川と合流します。
橋からの富士山の眺めです。手前にある愛鷹山が富士山の眺めを遮っています。
黄瀬川を渡ると沼津市に入ります。
黄瀬川橋から歩くこと5分強で、右手に傍示石(杭)が立っています。「従是西 沼津領」と刻まれています。安永6年(1777年)水野忠友が沼津藩の初代領主になった際に、沼津領を明確にするために、ここ黄瀬川村と下石田村の間に建てたものです。
その先、東下石田交差点で県道380号と合流します。
西友があるあたりから緩やかな下りになります。左手歩道脇には、歴史マップ沼津大岡と記された説明板が立っています。往時の地図に照らし合わせて見どころが示されています。
街道は県道から左へ入ります。
狩野川の堤防脇を進みます。
堤防に上がってみます。下流方面、沼津の街を望みます。
上流方面です。
狩野川に架かる黒瀬橋の高架をくぐったところに平作地蔵があります。
平作は、日本三大仇討ちの一つと言われた鍵屋の辻の仇討ちに出てくる人物です。この仇討ちは後の「伊賀越道中双六」という歌舞伎の演目にもなっていています。茶屋の主、平作が娘のお米の夫、渡辺数馬の仇の居場所を死をもって聞き出したという話です。後の人が平作を弔い地蔵尊を茶屋跡に建てたと言われています。
平作地蔵を過ぎると旧道は狩野川から離れていきます。
その先の右手には小公園があります。一里塚が復元されていて公園として整備されています。日枝の一里塚と呼ばれ、日本橋から数えて、30里目の一里塚です。説明板によると日本橋から30里の位置はこの先の沼津宿内にあたりますが、それを外して、ここ、日枝神社(ここから北に200mの場所)の参道脇に設けられたそうです。
公園の一角には玉砥石と呼ばれる石が二つ並んでいます。玉砥石は今から1,200から1,300年前に玉を磨くために使われたと言われています。古代、この地では玉造が行われていたそうです。しかし、どうやって研ぐのでしょうかね。

その先で再び県道380号と合流します。
沼津宿
沼津宿に入ります。
水野忠友が沼津の地を治める以前、沼津城は三枚橋城と呼ばれていました。その名残が地名に残っています。
三園橋交差点を過ぎ、横断歩道橋が架かるところで、東海道は左へ入ります。
左へ入るとその先は川廓通りと呼ばれています。沼津城の外郭と狩野川に挟まれた街道筋です。石畳風に整備されています。
あゆみ橋の下をくぐるところで右折して沼津城跡へ行ってみます。
階段を上るとそこは中央公園になっています。かつての本丸跡です。
左手奥には沼津城本丸址碑が立っています。慶長以前の三枚橋城は天正7年(1579年)に武田勝頼が築城しました。関ヶ原の合戦後、慶長6年(1601年)に大久保忠佐が城主となりましたが、大久保家に世継ぎが出来ず、お家断絶となって、それと共に三枚橋城は廃城となりました。その後、沼津は天領となりましたが、後に水野忠友が領主となって沼津城を整備することになりました。
傍らのメタセコイアはちょうどいいくらいに紅葉しています。
街道に戻り、その先で川廓通りは県道159号に突き当り、終わりになります。ここを左折します。