今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(10)東田子の浦~吉原宿~蒲原宿~新蒲原 その1

 

2022年12月25日

 

柏原

 

 8:40頃、東田子の浦駅に着きました。天気快晴です。昨日今日とクリスマス寒波に見舞われ、強風を心配していましたが、全く穏やかな朝です。しかし、かなり寒く、日陰には霜が降りています。歩くには丁度良い気温なのですが、後に暖かくなって汗をかきそうです。8:45に歩き始めます。

 

 駅入り口交差点を右折して東海道に入ります。

 

 このあたりはかつて柏原と呼ばれ、間の宿が置かれていました。すぐの左手には「間宿柏原・本陣跡」の標柱が立っています。間の宿なので茶屋本陣がありました。

 

 右手には立派な構えの立圓寺が建っています。尾張藩の典医、柴田景浩がこの寺からの富士山の姿に感銘を受け、文化5年(1808年)に望嶽碑を立てました。鋭角三角形の富士山を模した石碑です。

 

 昭和放水路を広沼橋で渡ります。

 幕末に増田平四郎が東海道愛鷹山の間に広がる浮島沼を干拓しようと20年にわたり幕府に陳情し、慶応元年(1865年)に許可が下り、排水路工事を着工しました。明治2年(1869年)に工事は完成しましたが、その直後の高波で破壊されてしまいました。

 その後、昭和に入り排水路の跡を整備したのがこの昭和放水路となります。

 

 昭和放水路の向こう、浮島沼があったあたりを望みます。

 

 広沼橋を渡ったところに増田平四郎の像と一里塚跡の標柱が立っています。

標柱のみですが、沼田新田の一里塚で、日本橋から数えて、33里目の一里塚です。

 

 標柱から少し奥まった林の中に増田平四郎の像が立っています。

 

 街道脇には春耕道しるべが立っています。明治の時代に仁藤春耕はここ柏原から御殿場にある富士登山口までの道に、人々が迷わないよう自費で道しるべを立てました。

 道しるべには富士の山と和歌が刻まれています。

 

 田中新田地区を進みます。

 

 檜新田に入ると右手には愛鷹神社があります。

 

 県道380号は檜交差点から東海道本線の線路を跨ぎますが、街道は左へ入ります。歩行者は旧東海道順路の標識に従い車道の手前で左折します。

 

 その先で歩行者は歩道に従い右折します。角には東海道の標柱が立っています。

 

 県道170号に入ります。気温は7℃、まだまだ寒いです。

 

 大野新田地区を進みます。

 

 田中新田、檜新田、大野新田の水田を度重なる水害から守るため高橋勇吉は天保7年(1836年)から14年の歳月を費やし、排水のための堀を掘削しました。彼が天文に精通していたので天文堀と呼ばれるようになりました。彼の功労を讃え、顕彰碑が立てられています。

 

 左手階段を上がると妙法寺があります。毘沙門天を祀っているお寺ですが、なぜか鳥居が立っています。

 

 今井地区を通ります。日本製紙の巨大な煙突が迫ってきます。

 このあたりには初期の東海道の吉原宿が置かれていましたが、寛永16年(1639年)の大津波で被害を受け、北に街道が付け替えられ、吉原宿は依田橋村に移転しました。

 

 その先のT字路で東海道は右に入ります。かつての東海道は直進方面ですが、東海道本線の線路によって遮られています。

 

 T字路を直進して、線路際まで行ってみました。

 

 T字路に戻り、迂回します。踏切を渡り、道なりに左手線路際へ進みます。

 

 

 線路際を歩くと、その先で線路から離れていきます。ここから線路によって遮られた東海道が復活します。

 

 吉原駅入口交差点を通過します。

 

 左手奥には吉原駅があります。

 

 沼川に架かる河合橋を渡ります。

 

 沼川の上流方面です。かつての浮島が原を流れる沼川はほとんど流れはありません。

 

 その先の二又は左へ入ります。

 

 

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