2023年1月21日
神沢
東名高速道路の下をくぐった先の神沢交差で、道は二又に分かれます。右手の道は県道396号で、東海道は左へ入ります。由比宿ももう少しです。
交差点の近くを流れる神沢川を越えると神沢酒造場があります。銘酒「正雪」の醸造元です。由比出身の由井正雪にあやかり名前をもらいました。
このカーブは桝形っぽいですね。
左手には一里塚碑が立っています。由比の一里塚で、日本橋から数えて39里目の一里塚です。
由比宿
一里塚跡の先で、今度は本当の桝形跡に出ます。かつての由比宿の江戸側の入り口で、木戸がありました。
由比宿の町並みです。
右手の壁には御七里役所跡の説明板が架けられています。江戸時代、西国の大名の中には江戸と領地の間で連絡を取るための通信機関(七里役所)を約7里ごとの宿場に設置し、飛脚の中継地としました。この地には紀州徳川家の役所が置かれていました。
その先には由比宿本陣跡があります。現在は由比本陣公園として整備されています。
門をくぐると芝生の広場になっていて、子供たちが遊んでいます。
広場の奥には東海道広重美術館があります。せっかくなので見学させてもらいました。ちょうど東海道五十三次の企画展をやっていました。できれば、東海道を完歩した後でもう一度見たいものです。
脇にある由比宿交流館には宿場町の模型があります。中央左手が本陣です。
本陣敷地の街道脇には馬の水吞場が復元されています。宿泊した大名行列に連れられた馬の飲み水や洗い場として設けられていました。幅1m、東西20m、深さ60cmあったと言われています。今は亀が日向ぼっこしています。
本陣の前には江戸初期からつづく染物屋、正雪紺屋(こうや)があります。慶安事件で有名な由井正雪はこの紺屋の生まれと言われています。
このあたりに加宿11カ村(北田、町屋原、今宿など)が共同で問屋場を設けていました。本宿の問屋場と1ヵ月交代で問屋業務を担っていました。
桜えびの看板が。
由比川の手前には西木戸があり、現在も桝形の跡を見ることができます。桝形を左へクランク状に進むと由比川の河原に出ます。往時は仮橋が架けられていましたが、水量が増えると橋は取り除かれ、徒歩渡しとなりました。現代は川で遮られていて進めないので、直進方向の由比川橋を渡ります。
由比川橋を渡ります。
由比川橋の歩道は木の板が敷かれていて、歩く旅人には優しい道です。
その遠方には薩埵峠あたりを望むことができます。
橋の欄干には歌川広重の「由比 薩埵嶺」の浮世絵がはめ込まれています。
橋を渡ると、左からの旧道と合流します。下の写真は合流地点から振り返って見たところです。左の道が歩いてきた東海道で右の道が先ほどの西木戸跡から川を渡って続く旧道です。
加宿だった北田地区を進みます。由比桜えび通りという名前が付いています。
立派なお宅には「せがい造りと下り懸魚」の説明板が架かっています。せがい造りとは母屋の軒桁(のきげた;屋根の荷重を受ける横に渡した材料)に腕木を付け加え、突き出した軒を支える構造です。下り懸魚とは軒桁の端部を風雨から守るためのカバーで花鳥などの装飾を施しています。
和瀬川に架かる共進橋を渡り、町屋原地区に入ります。
由比桜えび通りは続きます。桜えびやしらすを扱うお店も増えてきまました。
豊積神社の参道入口があります。豊積神社の創建は延暦10年(791年)と言われています。坂上田村麻呂が東征の際、戦勝祈願と戦勝祝いに神楽を奉納しました。現代もお太鼓祭りとして続いています。
まだまだ、趣のある街道が続きます。
旧今宿村へ入った街道脇には由比太郎左衛門屋敷跡の碑が立っています。代々、由比宿の加宿問屋を勤めた家です。