今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

鎌倉街道上道(5)京王永山から北府中 その3

 

2023年3月4日

 

分倍河原

 

 分梅駐在所前交差点から現代の鎌倉街道を歩き、京王線の下をくぐってから左折して分倍河原駅前へ向かいます。駅前ロータリには新田義貞の勇猛果敢な像があります。この地では歴史を変えた新田義貞が敬われているようです。

 

 駅下の道を通って鎌倉街道へ戻ります。

 

 新田義貞像から歩くこと10分弱で、分梅碑のある三角スペースの北側の交差点、分梅駐在所交差点に着きます。交差点の反対側の角には光明院坂の説明板があります。光明院坂は、この交差点からの鎌倉街道の上り坂を示し、角にある光明院から名前が付けられました。別名「根っ子坂」とも呼ばれ、かなり荒れていた坂道だったそうです。

 

 光明院坂を上っていきます。多摩川の作る段丘崖です。

 

 坂の名前に由来する光明院の開山は不明ですが、正和5年(1316年)祈願所として建てられたのが開基とされています。

 

 その先のマンションの生け垣に「遺跡 高倉塚 50m」という標識が立っているので寄り道をします。

 

 街道から右へ入り、クランク状に左折して右折すると、南側の住宅街の中に高倉塚古墳が整備されています。府中崖線(ハケ)の縁にあたるこの辺りには25基の古墳が確認され、うち4基の墳丘が残っています。墳丘下層から6世紀前半のものとみられる土師器坏(はじきつき)が出土されたそうです。

 

 鎌倉街道に戻り、JR南武線の踏切を渡ります。

 

 その先には陣街道の標石が立っています。中世に軍勢が陣立して往来したことから鎌倉街道の別名として呼ばれていました。

 

 陣街道の標石の前には八雲神社があります。街道沿いにある八雲神社(天王様)は創建年代は不明ですが、敷地内には元応元年(1319年)の木に抱かれた石板碑があったりします。

 

 その元応元年(1319年)石板碑ですが、風化が激しく、他所に保管されています。天王様の道を隔てた民家の角にはそのレプリカが展示されています。

 

 その先の街道脇には浅間神社の鳥居が立っています。浅間神社はここ旧屋敷分村の鎮守で、新編武蔵国風土記稿には富士塚があったように記されていました。

 

 鳥居の脇には庚申塔が祀られています。延宝2年(1674年)に旧屋敷分の人々が建立したものです。一時期府中市の博物館へ保管されていましたが、平成13年(2001年)に元あったこの場所に戻りました。

 

 浅間神社の脇から西へ延びる道は浅間横丁と呼ばれています。

 

 やがて鎌倉街道は旧甲州街道と交差します。美好町3丁目西交差点です。旧道はこのまま直進するようですが、右折して次の美好町3丁目交差点を左折します。

 その前にここを左折して寄り道をします。

 

 美好町3丁目西交差点からすぐのところに府中宿本陣の表門が移設されています。ここは3年前に甲州街道を歩いた際に通りました。

 

 本陣門から戻り、美好町3丁目交差点を左折します。

 

 美好町3丁目交差点から15分弱、静かな住宅街を歩くと、鎌倉街道東芝府中事業所に遮られます。本日の鎌倉街道歩きはここ東芝町交差点までとして、右折して北府中駅を目指します。次回はこの広大な東芝の敷地の反対側からスタートします。

 

 東芝南門の前の東芝町交差点を右折して進むと、車道は跨線橋武蔵野線を越え、府中街道へ通じていますが、歩行者は右手に入って突き当りを左折します。

 

 武蔵野線東芝の敷地の間を歩いて行きます。

 

 春ですね。

 

 駅入口に到着しますが、駅名表示がどこにも見当たりません。

 

 東芝の専用口に、外からの入り口を加えたのでしょう。

 

 北府中駅に到着しましたが、改札口の前を素通りします。駅から直接つながる歩道橋を渡り正面の公園を突っ切ります。公園脇の交差点の角には薬師道の標柱があります。

 薬師道は国府国衙(こくが、政務機関)と国分寺の薬師堂を結ぶ古代からある道です。下の写真の左下方面が薬師堂へ続く道です。

 武蔵国分寺は、元弘3年(1333年)に分倍河原の戦で敗れて退却した新田義貞軍によって焼き払われてしまいましたが、建武2年(1335年)に新田義貞によって、薬師堂が再建されました。国分寺跡へは次回の鎌倉街道歩きに取っておきましょう。

 

 再び北府中駅へ戻ってきました。時刻は15:00です。今日は5時間ちょうどの行程でした。

 

 

 

 

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