2023月3月19日
江尻宿
朝、8:10くらいに清水駅に到着しました。清水といえば、サッカーとちびまる子ですね。
今回は1泊して藤枝まで歩く予定です。明日は年休を取って4連休としたうえで、天気予報とにらめっこしつつ、日程を決めました。静岡県の旅行支援キャンペーンも利用できそうです。
天気は曇りですが、この後、晴れて20℃くらいになるようです。1週間くらい前から、今日の予報は傘マークが付いたり、晴れたり、目まぐるしく変わっていましたが、たぶん雨には降られないでしょう。8:15に歩き始めます。
駅前ロータリーには立派な東照宮里程標が建っています。大正4年(1915年)4月に建てられたもので「従是貮里三拾町」と記されています。ここから11kmのようです。
西へ向かって歩き、本日のスタート地点、江尻東交差点を左折して東海道に入ります。
江尻宿の朝は静かです。
右奥に見える江浄寺は、謀反の疑いで自害させられた家康の長男、信康の菩提寺です。江戸時代に入ると参勤交代の大名や朝鮮通信使が立ち寄って参拝していたそうです。
郵便局の先の交差点で東海道は右へ曲がります。
交差点を右折すると石畳風ブロックを敷いた銀座通りに入ります。かつてはこの通りが江尻宿の中心で、本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠は50軒ほど建ち並んでいました。
380m続いた街道筋は魚町交差点で左折します。かつてはこの場所に問屋場や高札場がありました。
稚児橋で巴川を渡ります。慶長12年(1607年)に初めて巴川に橋が架けれらました。渡り初めの際に、人々の前を稚児が先に渡ってしまい、それが河童だったという謂れが残されています。このことから稚児橋と呼ばれています。今の橋には河童の像が立っています。
欄干にも河童が。
稚児橋を渡り、すぐの上流側の川沿いに船高札が立っていました。暴風の際は助け舟を出して破損させないようにしなさいとか、破損したときは皆で力を合わせて荷物を引き上げなさいとか、記されていたようです。
その先、入江2丁目交差点で二股に分かれますが、東海道は右の道へ入ります。左の道は久能道と呼ばれ久能山東照宮へ続いています。
路地を覗くと慈雲寺の山門の向こうに仁王様が見えます。慈雲寺は宝暦年間(1751~1764年)に長泉智牛和尚によって再建されたと言われています。和尚は瘦せた三保の土地を持つ農民のためにサツマイモの栽培を推奨しました。
慈雲寺参道のすぐ先には江尻宿の西木戸がありました。今は小さな石碑が立っています。
追分ようかん本店です。時刻は9時前なので残念ながら開店前です。脇には道標が立っています。
道標には「是より志三づ道」と記されています。元禄年間(1688~1704年)に建立されたもので、清水湊へ通じる道との追分に立っています。
大澤川を金谷橋で渡ります。かつて、旅人は土橋を渡っていましたが、重い荷物を載せた牛馬は橋脇で土手を降りて渡川していました。
その先で東海道本線と静岡鉄道静岡清水線の踏み切りを渡ります。その名も追分踏切です。
静岡清水線狐ヶ崎駅近くのT字路の角にも道標が立っています。
久能寺観音道と呼ばれる久能寺へ至る道の追分で、安永7年(1778年)に建立されました。久能寺はもともと久能山にありましたが、天正3年(1575年)に現在の位置(ここから南東へ約3km)に移りました。明治に入り廃寺となりましたが、明治16年(1883年)に山岡鉄舟が再建し、鉄舟寺と改められました。
T字路の向こう側は東海道の説明板があり、その裏手には上原堤「宗丹池」と呼ばれる池が広がっています。かつては農業用のため池でしたが、少し前までは遊園地の一部だったそうです。今は静かな水辺です。
街道は上原堤を大きく左へ回り込みます。左手の高台には上原子安地蔵堂が鎮座しています。創建は不明ですが、鎌倉時代あるいはそれ以前と考えられています。
天正10年(1582年)徳川家康が武田勝頼を攻める際に、武田側の武将で江尻城主であった穴山梅雪とこの地蔵堂で会見を持ち、梅雪は徳川側に寝返りました。その結果、武田家の滅亡につながったと言われています。
左からの県道407号に合流します。交差点の右手へ入ると静岡清水線の御門台駅に通じていますが、その角には東海道有度の標識が立っています。久能山のある有度山(日本平)の有度です。
県道に入ったすぐのところに、かつては一里塚がありました。草薙の一里塚です。日本橋から数えて43里目の一里塚です。この場所には高札場も立っていました。今はなぜか大タヌキが立っています。
柳橋の向こうに草薙神社の標識が見えますが、ここから1,200mもあるようなので寄るのは止めます。
草薙神社の創建は景行天皇53年(123年?)で、祭神は日本武尊です。日本武尊の東征の際、この地で逆賊に野に火を放たれ、焼かれそうになりました。ここで日本武尊は伊勢神宮から頂いた剣を抜き、草を薙ぎ倒して、難を逃れたという謂れがあります。