今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(12)清水~江尻宿~府中宿~丸子宿 その3

 

2023年3月19日

 

曲金

 

 東海道本線のアンダーパスをくぐって旧道に戻ると曲金の標識が立っています。府中宿まで八町、おおよそ、900mです。

 

 次の三叉路は右へ入ります。

 

 右へ入る手前の左角には、南向きに曲金観音堂が建っています。正治元年(1200年)、鎌倉を追われた梶原景時一族は京へ向かう途中、狐ヶ崎付近で地元武士団と対峙しました。しかし景時は合戦に敗れ、一族は滅亡、景時も西奈の山中で自刃しました。この地も合戦場となり、梶原一族を弔うために11面観音菩薩を祀っています。

 

 三叉路を右折して東海道新幹線、さらに、東海道本線の下をくぐります。

 

 春日1丁目交差点で国道1号を横切ります。

 

 

府中宿

 

 国道1号を横切ると府中宿に入ります。かつては東見附がありました。

 

 おや、久しぶりの飛び出し坊やです。中山道が懐かしい。

 

 東見附を過ぎると下横田町に入ります。町名碑と説明板があります。徳川家康駿府の町割りを整備した際に96か町を設け、それぞれの町名を示す石碑が設けられています。

 

 中央にグリーンベルトのある通りとの交差点、横田町西交差点を直進すると伝馬町に入ります。

 

 かつての鋳物師町です。

 

 左手には下伝馬本陣・脇本陣跡の石碑があります。

 

 少し先の道の反対側には上伝馬本陣、脇本陣、貫目改所、問屋場がありました。ここは府中宿の中心地でした。

 貫目改所は荷物の重さを検査する場所で、馬に載せられる荷物の重さは決められており、それによって運賃が決められていました。東海道には品川宿草津宿、そして、ここ府中宿に設置されていました。

 

 幕末の慶応4年(1868年)、東征軍参謀西郷隆盛と旧幕臣山岡鉄舟がここ松崎屋源兵衛宅で会見を持ち、徳川慶喜の処遇、江戸城明け渡し、武器の引き渡しなどが合意されました。そして、江戸薩摩藩邸で西郷隆盛勝海舟が会談を行い最終決定されました。これにより江戸城無血開城が実現されました。石碑には二人の顔のレリーフが飾られています。

 

 江川町交差点の歩道には駿府城の石垣の石が並べられています。

 

 駿府城の石垣は天下普請で造られたもので。工事にあたった大名を示すために刻印が打たれています。

 

 江川町交差点を右折すると駿府城まですぐですが、今日は静岡泊りなので帰りにでも寄ることにして、先に進みます。

 江川町交差点を左折して、次の呉服町交差点を右折すると、ブロック敷きの呉服町通りに入ります。歩道の幅も広く歩行者にやさしい通りで、日曜の昼時とあってかなりの人が出ています。江戸の昔から中心的な商店街でした。

 現代では「呉服町は五福町 ゆとり、遊び、学び、暮らし、伝統 五つの福があるところ」といったキャッチフレーズで謳っています。あくせくしていない街です。

 

 呉服町交差点から呉服町通りを300mほど歩き伊勢丹の角を左折します。かつてはここに高札場が立ち、札之辻と呼ばれていました。

 

 札之辻を左折して七間通りに入ります。ブロックを敷いた通りを600mほど歩き七間町交差点を横切ってさらに100m歩いた交差点を右折します。角には七間町の石碑が立っています。

 

 この地は「大阪の陣」のきっかけとなった、あの方広寺鐘銘事件にまつわる場所として記されています。家康の怒りを解くためにやってきた正栄尼(秀頼の乳母)は、いきなり駿府城へ登城するのは恐れ多いと、滞在していたこの七間町で家康の側室の阿茶の局を招いて謝罪したと言われています。

 

 七間町の石碑のある角を右折すると、やや狭い通りに入ります。郵便局前の歩道には駿河竹千筋細工の説明板が立っています。駿河竹千筋細工は、府中で古くから盛んに作られていた竹細工の工芸品で虫かごや花器などがあります。北斎の府中宿の浮世絵にも描かれています。

 

 次の東海道を横切る通りは人宿(ひとやど)通りで、この辺りの町名は人宿町と呼ばれています。かつては旅人の宿泊地として賑わっていました。

 

 次の交差点を左折します。ここは梅屋町です。

 

 ここからはしばし直線の道を歩いて行きます。少し、曇ってきましたね。

 

 梅屋町から左折してから3つ目の信号のある交差点まで来て、寄り道をするために右折します。

 

 交差点の左手には秋葉神社が鎮座していますが、社殿は平屋の屋上にあります。

 

 東海道と並行して走る県道208号を、本通8丁目交差点の横断歩道で渡ります。

 

 歩道を少しだけ西へ進むと府中の一里塚碑があります。歩道側から見ると説明板になっていますが、ところどころ薄くなって読解できません。車道側のその裏には大きく「一里塚」と記されています。かなり危ないとは思いつつ、車道に入って写真を撮りました。

 東海道が制定されたときは、この本通りが東海道筋でしたが、すぐに、現在の通り(新通り)へ付け替えになり、一里塚が取り残されたようです。日本橋から数えて45里目の一里塚です。

 

 再び東海道に戻り、直線道を進みます。

 

 長かった直線道も終わり、弥勒地区へ入ります。川越町から弥勒村へ入るあたりにかつての西見附があったそうです。長かった府中宿もここで終わりになります。

 右からの県道208号と東海道との合流地点に小さな公園があります。じっくり見る時間はありませんでしたが、川会所跡、明治天皇御小休所跡碑、由比正雪墓跡碑などがあるようです。

 

 

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