今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(15)金谷~金谷宿~日坂宿~掛川宿~掛川 その2

 

2023年4月9日

 

菊川

 

 菊川坂の石畳を注意深く下り、菊川地区へ入ります。菊川の辻を抜け、東海道高麗橋で菊川を越えると右へ大きくカーブします。

 

 菊川の里と呼ばれています。

 

 この先の東海道は通行止めになるので、迂回するように看板が掛けられています。迂回路に入る前に菊川の里の雰囲気を味わうため、さらに先へ進みます。

 

 建物の壁一面に昔の菊川の地図が描かれています。本陣、脇本陣問屋場の名前も記されています。

 

 右手には菊川の里会館があり、その一角には菊川近辺を知る様々な資料が掲示されています。

 菊川は間の宿(あいのしゅく)でした。通常、宿場間が3から4里あると間の宿が設定されていましたが、金谷宿と日坂宿間は1里24町にもかかわらず、両側に難所があったことから間の宿に指定されていました。もちろん菊川には旅人は宿泊できません。大井川の川止めでは、金谷宿がいっぱいになると、この先の日坂宿も旅人で溢れたそうです。

 

 菊川の由来となった菊石です。このような菊の花をした石が菊川で取れたことによります。この見事なクラックはどのようにしてできるのでしょうかね?

 

 その脇には藤原宗行と日野俊基の歌碑が立っています。

 源頼朝の死後、鎌倉幕府の推進力の低下に乗じ、後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)に倒幕の院宣を出しましたが、鎌倉幕府に敗れてしまいました。側近の藤原宗行は鎌倉へ送られることになり、菊川の宿に宿泊した際に自分の死期を悟り、詩を残しました。

  昔南陽縣菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命

 (昔は南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ 今の東海道の菊川西岸に宿どり命を失う)

 また、日野俊基後醍醐天皇鎌倉幕府倒幕を企て、元弘元年(1331年)、元弘の変で捉えられ鎌倉へ連行される途中、ここ菊川で歌を詠みました。

  いにしへも かかるためしを 菊川の おなじ流れに 身をやしづめん

110年前の宗行の話を聞いて思いを寄せた歌だそうです。

 説明板では、「間の宿菊川は歴史とロマンの里である」と締めくくっています。

 

 街道を少し戻って迂回路に入ります。

 

 道は直進です。ここまでは迂回の標識が立っています。

 

 しかし、その先には何も標識がありません。

 

 坂道の途中の十字路で右手は通行止めになっているので、東海道は、本来、右手から上ってくると思われますが、この十字路はどちらへ進めばよいのか何も記されていません。

 ここは勝手に直進だと思い、正面の急な坂道を上ります。

 

 かなりの急坂を上っていきますが、旧東海道を示す目印は何もありません。

 

 お茶畑が広がるのどかな風景です。ウグイスの鳴き声だけが聞こえてきます。

 まさか旧東海道は谷を隔てた向こう側の尾根を通るのではないでしょうね。

 

 延々と続く青木坂(だと思う)の上り坂を上っていきます。

 

 やがて島田市掛川市の市境を示す標識が現れました。道は間違っていませんでした。

 

 峠に近づいてきたのでしょうか。

 

 新緑の季節です。赤い楓の若葉が青空に映えます。

 

 峠が近いですね。

 

 接待茶屋の石碑が立っています。鎌倉時代から旅人に茶を振る舞っていた場所でした。

芭蕉の句が記されています。

  馬にねて 残夢月遠し 茶のけむり

「旅の途中、馬の上でうとうとしてしまい、気づいたら月が傾き、茶の煙が昇っていた」といった意味でしょうか。芭蕉が小夜の中山を旅した際に詠まれた句だそうです。

 

 接待茶屋跡からの眺めです。一服する価値がありますね。

 

 接待茶屋跡の向かいは久延寺が建っています。

 山内一豊会津征伐へ向かう徳川家康をここでもてなしたと言われています。

 

 橘為仲朝臣の句碑です。

  旅寝する さやの中山 さよなかに 鹿も鳴くなり 妻や恋しき  

  ・橘為仲朝臣・風雅和歌集

(碑文の写し)

心細い旅寝のさやの中山で、真夜中に牡鹿の鳴き声が聞こえてくるよ。谷向こうの雌鹿が恋しいのであろうか。

 

 右手には子育飴の茶屋扇屋があります。扇谷は、宝永年間(1704~1710年)から300年続く茶屋で、往時は久延寺の周りに多くの茶屋が集まっていましたが、今に残るのは扇屋1軒のみとなりました。(今日はお休みでしょうか)

 昔、近くの街道上に大きな石があり、その付近で旅をしていた妊婦が山賊に襲われて亡くなりました。しかし、お腹の子は無事助けられ、久延寺の住職が水飴でその子を育てました。子を思う母の霊はその大石に乗り移り、夜な夜な鳴き声が聞こえたという伝説が残っています。こうやって、子育飴は小夜の中山名物になりました。

 

 扇屋の前には西行の歌碑が立っています。円筒形の立派なものです。

  年たけて また越ゆべしと おもひきや いのちなりけり さやの中山

新古今和歌集に掲載されている和歌で、西行が「年老いて2度目の小夜の中山越えを迎えられたのは長生きしたからだと」という気持ちを詠ったものだそうです。小夜の中山を一躍有名しました。

 

 西行の歌碑がある一帯は小夜の中山公園として整備されています。この辺りが小夜の中山の最高地点で、菊川の里との標高差は150mほどです。

 

 「茶」文字がここからも見えます。まさにランドマークですね。

 

 「東海道の茶どころ 小夜の中山 そろそろ緑茶でいっぷくしませんか」

 

 その先のT字路の角には一里塚の小公園があります。

 

 佐夜鹿(小夜の中山)の一里塚と呼ばれています。日本橋から数えて、56里とも54里とも言われていますが、街道の付け替え等もあり、ここで正確な里数にこだわる必要もないので、56里説を採用します。

 

 その先も歌碑が続きます。

  甲斐が嶺は はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山  

  ・蓮生法師・続後選和歌集

蓮生法師は熊谷直実です。

(碑文の写し)

遥か甲斐の白根の峰々は雪で白い。今、神無月(十月)、時雨の中、さやの中山を越えることだ。

 

 次は、

  東路の さやの中山 なかなかに なにしか人を 思ひそめけむ  

  ・紀友則古今和歌集

(碑文の写し)

東国へ行く人がきっと通るのが佐夜の中山である。中山のなかといえばなかなかに(なまじっか)どうしてあの人に思いを掛けたのであろう。

 

 

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