2023年4月9日
佐夜鹿
牧の原台地の茶畑が広がる尾根道を徐々に下っていきます。雲一つありません。すがすがしい風景です。
ふるさとに 聞きしあらしの 声もにず 忘れね人を さやの中山
(碑文の写し)
旅に出て耳にするここ佐夜の中山の山風の音は都で聞いたのとは似ても似つかない。このように都も遠ざかったのであるから、いっそ都の人のことなど忘れてしまえよ。
道のべの 木槿は馬に くはれけり
(碑文の写し)
道端の木槿の花が、乗っている馬にパクリと一口食われてしまったよ。
街道脇には白山神社の小さな祠が立っています。1本の大きな木がアクセントを付けています。
歌碑はまだまだ続きます。
東路の さやの中山 さやかにも 見えぬ雲井に 世をや尽くさん
(碑文の写し)
東国への道中の佐夜の中山よ、都を離れてはるか遠くここまで来たが、はっきりとも見えない遠い旅の空の下で生涯を終えることであろうか。
道は二手に分かれますが、東海道は左へ入ります。標識が立っています。
馬頭観世音が祀られています。上杉三位良政が都から蛇身鳥という怪鳥退治にやってきた際、ここに愛馬を葬ったと言われています。
尾根道は続きます。
左手には小公園があります。石碑には涼み松広場と記されています。
奥には芭蕉句碑が立っています。
命なり わずかの傘の 下涼み
この辺りにかつては大きな松が立っていて、芭蕉はここで詠んだ句と言われています。このため、この松は涼み松と呼ばれていました。
この句は延宝4年(1676年)の江戸広小路に記載されています。
街道の向かい側には妊婦の墓があります。上杉三位良政と月小夜姫との娘、妊婦の小石姫が自害したと記されています。
再び、芭蕉句碑があります。
馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり
先ほどもありました。
(碑文の写し)
早立ちの馬の上で馬ともども目覚めが悪く残りの夢を見るようにとぼとぼと歩いている。有明の月は遠く山の端にかかり日坂の里から朝茶の用意の煙りが細く上がっている。
さらに緩やかに下っていきます。
左手には夜泣き石跡碑があります。盗賊に襲われた妊婦の霊が乗り移ったと言われている夜泣き石はかつてこの付近の街道を塞ぐようにありました。明治天皇の御東幸の際に道の端に移動され、その後、東京で行われた博覧会に出展されたのち、現在の久延寺に安置されています。通り過ぎて見ずじまいでした。
広重の浮世絵にも東海道の真ん中に大石が描かれています。
さらにお茶畑の中を進みます。
お茶畑が途切れると、集落が現れ、そこから急な下り坂に入ります。
その先、S字の連続した下り坂に差し掛かります。この坂は二の曲がりと呼ばれていました。
まだまだ急こう配が続きます。
やがて西側が開け国道1号の高架が見えてきます。
街道の傍らにはこれから訪れる日坂宿を描いた、広重の「狂歌入り東海道 日阪」の浮世絵が掲げられています。
国道1号の下をくぐります。
県道415号を横断して日坂地区に入ります。
日坂宿
秋葉山常夜燈が鎮座しています。かつては安政3年(1856年)建立の常夜燈がありましたが、老朽化のため平成10年(1998年)に新たに復元されたものです。
秋葉山常夜燈の奥に広がる広場は本陣跡です。復元された本陣門が建っています。
桜の木の下でのブランチです。
30分ほど休憩して、日坂宿を歩き始めます。
問屋場跡の碑が民家の庭に立っています。
こちらは幕末に脇本陣を務めた黒田屋跡です。
藤文は幕末に問屋役を務めた伊藤文七の邸宅でした。
その先は旅籠萬屋です。庶民が利用する旅籠でした。日坂宿では嘉永5年(1852年)に大火があり、萬屋も焼失しました。再建がいつなされたのか不明ですが、安政年間(1854~1859年)には再建されたと考えられています。
左手には旅籠川坂屋があります。川坂屋は寛政年間(1785~1800年)に問屋役を務めた斎藤次右衛門が始めたと言われています。嘉永5年(1852年)の大火で川坂屋も焼失してしまいましたが、その後再建されました。脇本陣という記載の資料は見られませんが、上段の間が残り、身分の高い武士や公家が泊まったと考えられています。
また、敷地の一部に、掛川藩主太田候から譲り受けた茶室がありました。国道1号バイパスの建設で母屋の北側で復元されました。
日坂宿の町並みが終わり、西の端にも秋葉常夜灯が立っています。こちらの常夜燈は天保10年(1839年)に建立されたものです。
その隣には高札場が復元されています。
逆川(さかがわ)に架かる古宮橋の手前には下木戸跡の碑が立っています。往時はこの境川が木戸の役割を果たし、有事の際は木橋でできた古宮橋を落とすようになっていたそうです。