2023年12月29日
峰の坂
所澤神明社の先から坂道を上っていき、上り切ったところに峰の坂交差点があります。鎌倉街道は実蔵院の南側から段丘崖を下り、東川を越えます。水場のある所沢宿から、再び段丘崖を上って台地の上まで出ます。実蔵院の南側の坂道には、掘割りの跡を見ることができましたが、峰の坂辺りは道幅も広くなり、往時の面影はありません。
峰の坂の先は、再び、直線の街道が続きます。
峰の坂交差点から5分強歩くと、所沢中学校の校門脇にも、旧鎌倉街道の標柱が立っています。
すぐのところで、右に入る細い路地があります。鎌倉街道は直進しますが、右の道は支道の堀兼道になっています。堀兼道はここから川越方面へ通じています。この先は、水の乏しい武蔵野台地を通り、平安時代の和歌の歌枕として知られた堀兼の井があります。
新所沢駅入口近くにも。
新所沢の駅を過ぎても住宅街は続きますが、岩岡町に入るとだいぶまばらになってきます。
まだまだ、あります。ここは西富小学校の校門脇です。
やがて、鎌倉街道は西武新宿線と斜めに交差します。逆S字を描いて踏切を渡りますが、その先も、直線の道が続きます。
東側は一面に畑が広がります。
直線の道はさらに続きます。
堀兼道との分岐からおおよそ1時間歩き、ファミレスを見つけたので少し早い目の昼食にします。
40分ほど休憩を取った後に、再び歩き始めました。
その先で入曽駅入口交差点を過ぎ、すぐの入曽交差点の手前脇には金剛院があります。
右手の路地を入ると、風格のある四脚門の山門が建っています。天明2年(1782年)に建立されたと言われています。天保および明治の火災においても、類焼を免れた門です。
金剛院は奈良の長谷寺の末寺ですが、創建は明らかではありません。本尊は享保元年(1716年)作の木造不動明王座像で、この他に室町時代の木造地蔵菩薩立像などが安置されています。
鎌倉街道に戻り、入曽交差点の先左手には入間野神社があります。
入間野神社の創建は建久2年(1191年)と言われています。古くは国井神社と呼ばれていました。
毎年10月には、先ほどの金剛院とともに、入曽の獅子舞が奉納されます。かつて、金剛院はこの神社の別当寺とされていて、神仏混淆の名残といえます。
神社所蔵の獅子舞が描かれた絵馬には、宝暦8年(1758年)と記されていて、獅子舞は少なくとも江戸中期から行われていたと推定されています。埼玉県の無形民俗文化財に指定されています。
すぐのところで不老川を渡ります。護岸整備された川ですが、「不老」とはどんな謂れがあるのでしょうか?
標識には「ふろうがわ」と記されていますが、川を渡った観音堂脇にある説明板には「とししらずがわ」と記されています。かつては、冬季になると水枯れの川でした。
川を渡ると観音堂が建っています。創建は建仁2年(1202年)と言われています。本尊は、木造聖観世音菩薩坐像です。
かつては、この場所に常泉寺という寺があり、その中に観音寺がありました。文保2年(1318年)に大干ばつが起こり、水に困った土地の人たちが観世音菩薩に祈願して、井戸を掘ったところ、清水が湧き出したという言い伝えが残っています。その後、江戸の時代に入り、常泉寺はここから北東に300mのところに移りましたが、観音堂だけはこの場所に残りました。
そして、その井戸は七曲井と呼ばれ、観音堂の裏にあります。
七曲井の上面図と断面図が示されています。ここ武蔵野台地では水を得ることが難しく、漏斗状に掘り下げて井戸を掘りました。平安時代中頃に掘られて江戸時代まで使われていたそうです。
写真手前から下へ下る道があり、中央に井戸が掘られています。補強のために土壁を作り、発掘時に明らかになった構造とは若干異なるそうですが、雰囲気は掴めます。下へ下る道が七曲りであったため、七曲井と呼ばれていました。
観音堂の前で鎌倉街道を横断して、向かいの路地に入っていきます。
左手には野々宮神社があります。創建年代は不明ですが、社家の伝承では、日本武尊の東征に従ってこの地に土着したと言われています。
再び街道に戻って北へ向かいます。狭山茶の産地なのでお茶屋を多く見かけます。
坂を上ると台地上の道になります。
郵便局の脇を通ります。狭山市の街中に入ってきました。
野々宮神社の前から続いていた直線の道が終わり、右へカーブする手前の信号を左折します。