今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

鎌倉街道上道(16)児玉から神川 その1

 

2024年3月16日

 

児玉

 

 8時ちょうどに児玉駅に到着しました。天気は晴で、今日の児玉地方の最高気温は20℃くらいになるようです。とても良い気候になりました。鎌倉街道はこの先で神流川を渡りますが、近くに橋が架かっていません。このため、下流藤武橋まで迂回する必要がありますが、川の反対側の鎌倉街道までは5kmもあります。今日は埼玉県側の川岸まで歩くことにして、丹荘駅へ戻ります。次回は群馬藤岡駅から川の反対側へ回ることにします。8:10に児玉駅を後にします。

 

 駅から西へ歩き、左からのT字路が今日のスタート点です。鎌倉街道は、その先すぐの右の道へ入りますが、寄り道のため駅前通りを直進します。

 

 道なりに8分ほど歩くと雉岡城跡入口に着きます。

 雉岡城は八幡山城とも呼ばれ、15世紀頃、関東管領山内上杉氏によって築城されました。後に後北条氏の進出によりその支配下になりましたが、天正18年(1590年)に、豊臣秀吉による北条氏攻めにより落城しました。徳川家康の関東入国後は松平氏の居城になりましたが、慶長6年(1601年)に城主の松平家清が三河国吉田へ転封となり、雉岡城は廃城になりました。

 

 城内に入ります。

 

 左手奥に広がる大手へ向かいます。外側には土塁が続きます。

 

 大手門付近です。

 

 馬出の先には深い堀が横たわっています。堀の底には夜泣き石が見えます。夜泣き石には次のような言い伝えが残っています。ある日、お殿様の夕餉に針が混ざっていて、これを怒った奥方が、よく調べもしないで側女のお小夜のせいとして、生きたまま井戸に沈めてしまいました。お小夜のお腹には赤ん坊を宿していました。その後、どこからとなくお小夜の鳴き声が聞こえ、井戸から棺桶を引き上げたところ、中には子供石を抱いた大きな石になったお小夜がいました。奥方は自分の仕打ちを後悔し、お小夜を篤く弔いました。

 

 馬出から北に向かって土塁の上へ進むと、金比羅様が祀られています。土塁の左手のすぐ傍には中学校の校舎が建っています。

 

 金比羅神社の北側一帯が本丸になりますが、現在は同様に中学校の敷地になっていて通行できません。

 

 さらに、本丸脇の土塁の先には二の丸、三の丸と続いていますが、こちらは高校のグランドになっています。

 

 金比羅神社裏から右手の水堀跡へ下ります。現在も池になっていますが、その脇を東に向かって、先ほどの入口へ戻ります。

 

 途中、馬頭観音が立っています。

 

 雉岡城を後にして来た道を戻り、先ほどのT字路を左折して鎌倉街道歩きをスタートします。

 

 すぐの二股は左の細い路地に入ります。

 

 住宅地の中を歩くと、

 

 八高線の線路に突き当たります。鎌倉街道は線路の先に続いていますが、現代の道は線路に沿って道なりに進みます。

 

 線路の盛り土には黄色い水仙が自生していますね。

 

 すぐの八高線のガードをくぐり、直進します。

 

 その先はスーパーやドラッグストアなど郊外型の店が並んでいます。

 

 国道254号との交差点、長浜町北交差点の手前、美容室の手前を左折します。

 

 カインズホーム裏の道を進みます。

 

 やがて、土道に出ますが、そのまま直進します。

 

 女掘川に架かる、小さな雀の宮橋を渡ります。

 

 女掘川です。あまりにも長閑でひばりの声が聞こえます。

 

 道路の高架の下をくぐると、そのまま田んぼの畔道に入ります。ここからは、神川町になります。

 

 突き当りを左折するとすぐに線路脇の道に出るので、右折して線路に沿って歩きます。

 

 線路脇の道を歩いて、二つ目の踏切のすぐ手前を右折します。

 

 石標が3本立っていいます。背の高い右側の碑には「塙保己一先生百年祭記念碑入口」と記されているようです。左の石標は道標のようですが、真ん中はよく分かりません。

 

 石碑群の先の十字路を左折します。鎌倉街道はその先の十字路を直進しますが、左折して寄り道をします。先ほど見えていた八高線の踏切を渡ります。

 

 

鎌倉街道上道(16)児玉から神川 その2へ続きます。