今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

東海道(29)前野~水口宿~水口城南 その1

 

2024年5月12日

 

前野

 

 JR草津線貴生川駅からあいくるバスに乗って東前野バス停に着きました。時刻は8:00です。昨日の好天とは打って変わって、今日はどんよりと曇った空が広がっています。昼くらいから雨の予報なので、早めにやって来たのですが、水口宿あたりまでなら雨に降られずに歩けるかなあと思いながら、8:05に歩き始めます。

 

 すぐに、牛頭天王社が角にあるT字路に突き当たります。

 

 右折して東海道に入ります。

 

 左手には瀧樹(たき)神社の鳥居が立っています。瀧樹神社は昨日訪れましたが、こちらが表参道になります。

 

 右手には地安禅寺があります。地安禅寺は後水尾法皇ゆかりの寺です。後水尾法皇(1596~1680年)は、ここ地安禅寺を開山した龍渓和尚に深く帰依していました。法皇崩御後に、皇女照山元遥尼から地安禅寺へ法皇の木造と位牌が下附されました。御影堂に安置されています。

 

 照山元遥尼は出家の際に京都修学院離宮の隣にあった山荘を林丘寺に変え、照山元遥尼は林丘寺宮とも呼ばれるようになりました。林丘寺宮は地安禅寺鐘楼門前の参道の両側にお茶の木を植え、毎年、ここで収穫された茶葉は林丘寺へ献納されるようになりました。この茶畑は昭和の初めまで栽培されていましたが、現在では1本の木を残すのみです。

 

 地安禅寺を後にして、県道24号を横断し、しばらく歩くと、左手には垂水頓宮御殿跡の石碑と説明板が立っています。

 

 説明板によると、垂仁天皇の皇女、倭姫命天照大神の鎮座地を求めて巡行している途中、巡行地の一つの甲可日雲宮がここ土山にあったと言われています。この付近に「御殿」という地名が残っていることから殿舎があったと考えられています。

 

 諏訪神社の前を通ります。

 

 右手には長泉寺があります。

 

 土山町市場地区を通ります。

 

 右手、民家の生け垣には一里塚跡碑が立っています。市場の一里塚で、日本橋から数えて、111里目の一里塚です。

 

 小さな橋が見えてきます。

 

 橋の手前には「大日川掘割」の石碑が立っています。かつて、この辺りは大日川の氾濫で被害を受けていました。このため、大日川の西側の大野村で境界に堤防を造ってしまったところ、市場村(東側)がさらに大きな被害を受けるようになりました。

 元禄12年(1699年)、市場村では領主に願いを出して、504間(およそ1km)に及ぶ排水路を掘割りして野洲川へ流す工事を始めました。村民総出で工事にあたり、元禄16年(1703年)に完成しました。このことが記されている説明板は橋を渡った大野村側に立っています。

 

 大日川を渡ります。この先すぐのところで、野洲川に合流しています。

 

 大日川を渡ると大野地区へ入ります。

 

 左手には東海道反野畷(なわて)碑と、その後ろには大日川(堀切川)掘割の説明板が立っています。

 ここから畷道が始まります。

 

 反野畷道には街道の名残の松が見られます。かつては大野の松並木と呼ばれる並木が続いていました。

 

 左手には淀藩領界石が立っています。「従是東淀領」と記されていますが、生け垣の内側に埋もれています。淀藩と言えば山城国にあった稲葉家の藩ですが、国内各地に飛び地がありました。

 

 領界石の隣には、先ほどと同じ反野畷の碑が立っています。反野畷の西端の場所のようです。およそ500mの畷道でした。

 

 街道脇には花枝(はなえ)神社の鳥居が立っています。嘉祥3年(850年)に大野村の喜多兵宮が坂本の日吉大社、八王子社を勧請したのが始まりです。本殿はこの先、国道1号を越えたところにあります。

 

 花枝神社の鳥居の隣には「シーボルトとトキの剥製」の説明板が立っています。

 ドイツ人医師であり博物学者であったシーボルトはオランダ商館医として文政6年(1823年)に長崎に赴任してきました。4年に1度のオランダ商館長の将軍拝謁に同行して、東海道を江戸へ向かう途中、ここ大野村でトキの剥製を入手しました。その後、彼はいわゆるシーボルト事件で禁制の日本地図等を持ち出そうとして国外退去処分になりますが、すでにトキの剝製はオランダへ送られた後で、現在もライデン市の自然博物館に展示されています。大英博物館から「ニッポニア・ニッポン」という学名が付けられています。

 

 土山公民館の敷地の片隅に眞風軒(しんぷうけん)の漢詩の石碑が立っています。眞風軒は江戸末期から明治にかけての漢詩人で、土山の茶摘みの風情を詠んだものです。

 土山を過ぎて即興する

 採茶の時節、事匁忙す

 緑髄の青芽壮なり

 僻郷に清風あり

 一瀹、君知るや否や遠きに至る

 紅洋黒漠として香し

と読むようです。

 

 これは、飛び出し茶摘み娘ですね。

 

 かつての大野村は間の宿で、公認の宿場ではなかったため宿泊することは許されていませんでした。しかし、それは名目上のことで、多くの旅籠が並んでいました。街道脇には、旅籠跡の石碑が並んでいます。

 

 旅籠小幡屋跡には明治天皇聖跡の石碑が立っています。明治元年(1868年)、明治天皇は東幸の際に小幡屋で休憩しました。

 

 小幡屋跡のはす向かいにレンガの煙突が見えるのは安井酒造場です。地酒初桜の醸造元です。

 おっと、これはハツサクラを持った飛び出し坊やですね。

 

 東海道は右へ弧を描き、その先には国道1号との交差点が見えてきます。

 

 交差点の手前のみよし赤甫亭には三好赤甫(せきほ)旧跡の説明板と赤甫を讃える碑が立っています。三好赤甫は江戸末期から明治にかけての俳人で、京都で俳諧を学んだ後に故郷へ帰り、後進の指導を行い、この地での俳諧の基礎を築きました。

 ほととぎす 早苗に影を のこしゆく

 

 大野交差点で国道1号を横断します。その先は左手に国道と並行した道に入ります。

 

 田植えの終わった田んぼが広がります。

 

 旅籠東屋跡の碑が立っています。大野の中心地から少し離れています。

 

 眼下には野洲川が造った低地に広がる田んぼを望むことができます。木々に遮られていますが、その向こうには野洲川が流れているようです。

 

 

東海道(29)前野~水口宿~水口城南 その2へ続きます。