東海道(30)水口石橋~水口宿~石部宿~石部 その4
2024年10月13日
吉永
通称「吉永マンボウ」と呼ばれているトンネル、天井川である大沙川を貫くトンネルを通りましょう。上を川が流れているとすれば、結構な高さがありますね。このトンネルは明治17年(1884年)に造られました。江戸時代の旅人はこの土手を上って、越えていました。

トンネルを抜けると左手(下の写真では右手)から上へ上れるようになっています。

緩やかな坂道を上り、途中で左に入ってさらに上っていきます。直進方面は三雲城址へ続いているようです。
ここ三雲地区には天井川が多く存在します。木材の切り出しにより、上流の山が禿山になり、流れ出た土砂で川底が浅くなり、洪水を防ぐために盛り土を行い、また、土砂の流入で、盛り土をするといった繰り返しで、次第に川の位置が高くなったと言われています。住民の川との戦いの痕跡です。
中山道歩きでも、旧草津川の土手を越えてきました。なぜこの地方に天井川が多いのでしょうか。竹村公太郎氏の著書「日本史の謎は地形で解ける 文明・文化篇」では、1600年頃には関西の木材需要は関西圏の森林再生能力をはるかに超えていて、山地の荒廃はその周辺まで広がっていっていた、と記しています。広重の東海道五十三次にも、二川をはじめとする多くの宿場の浮世絵には木の少ない荒涼とした風景が描かれているとも指摘されています。このような状況であれば、少なからず様々なところで天井川が見られても良いはずです。川底に土砂が溜まりやすい地形が関係しているのでしょうか。

川が流れているであろう頂部まで上ってみると、そこには幅が狭く、護岸の施された、しかも、水の流れていない大沙川の眺めがありました。

また、この頂部には弘法杉と呼ばれる杉の巨木がそびえ立っています。説明板によると、樹高28m、樹齢約750年と言われています。もともと、2本の杉の木が立っていましたが、台風で1本は倒れてしまいました。一説によれば、弘法大師(空海)が2本の木を植えたとか、ここで、食事を終えた後に、2本の杉箸を差しておいたのが成長したといった謂れが残っています。

東海道に戻ると、左手南側に小高い丘陵が見えてきますが、この中腹に猿飛佐助の三雲城があったのでしょうか。
三雲城は、中腹の八丈岩付近に観音寺城主佐々木六角高頼によって長享2年(1488年)に築城されましたが、元亀元年(1570年)に織田信長の京都侵攻の際に、家臣佐久間信盛に攻められて落城しました。今も石垣の桝形虎口などの遺構か残っているようです。

東海道は夏見地区に入ります。

街道脇には、夏見の里(藤棚)の説明板が立っています。この辺りは夏見の里と呼ばれ、茶店の並ぶ立場で、トコロテンや桜川という酒が名物でした。また、伊勢参宮名所図会には藤棚のある茶店、いなりやが紹介されていました。しかし、平成21年(2009年)に藤と棚は撤去されてしまいました。

少し歩くと、掲示板に伊勢参宮名所図会の藤棚の描かれた夏見の里の絵が貼られています。

さらに、夏見の町並みを通ります。

かつて、この辺りには夏見の一里塚がありました。現在は住宅街の中で何の痕跡もありません。日本橋から数えて115里目の一里塚です。

街道脇には説明板あります。写真は名古屋市の笠寺の一里塚が、例として掲載されています。

説明板の脇には一里塚跡のプレートも。

その先(説明板によると70m)の夏見診療所の前にも、夏見の立場と一里塚の説明板が立っています。

街道の先には、再び、天井川をくぐるトンネルが見えてきました。

由良谷川をくぐるトンネルです。

手前の右手には「新田道」と記された道標が立っています。

トンネルを抜けると、付け替えられた由良谷川を渡ります。

新由良谷川橋の欄干には由良谷川のプレートが。

針地区に入り、左手には飯道神社の社標が立っています。飯道神社の祭神は素戔嗚尊で、創建は大同2年(807年)と言われています。

左手には地酒御代栄の蔵元である北島酒造があります。文化2年(1805年)の創業です。

その先で家棟川を渡ります。家棟川もかつては天井川で、明治の東海道はトンネルをくぐっていましたが、川の改修により撤去されました。

家棟川を渡ると平松地区に入ります。

先の十字路を左に入ったところに「天然記念物うつくしまつ自生地→」の標識が立っています。

うつくしの松自生地はここから1km弱の山の中腹にあるので、寄りませんでした。三雲地区にあった、きずな街道 歴史探訪・史跡めぐりマップに掲載されていたうつくしの松の姿です。説明文によると、主幹がなく一本の根から複数本の枝が分かれていて、特異な形態を示しています。日本ではここにだけで、国の天然記念物に指定されています。

平松地区を進みます。

高木陣屋跡の説明板が立っています。元禄11年(1698年)、高木伊勢守は道中奉行に任命され、翌年よりここ平松を領することになりました。

柑子袋(こうじぶくろ)地区に入ると、右手には光林寺があります。建長4年(1252年)の開基で、当初は天台宗でしたが、文明9年(1477年)に浄土真宗本願寺派へ改宗しました。
