今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

鎌倉街道上道(18)根小屋から高崎 その3

 

2024年11月24日

 

山名

 

 上野三碑のうち、金井沢碑と多胡碑を見学した後、西山名駅から鎌倉街道歩きを再開しました。まずは、三つ目の山上碑と山上古墳を見学してから、丘陵地帯の中腹を東へ進み、山名八幡宮へ到着しました。八幡宮へは裏から入り、表へ回るという変則的な参拝になりました。

 時刻はちょうど正午になったので、駅チカのカフェで昼食のためにドライカレーを頂きました。なかなか、ゆったりできる店で、40分くらいゆっくりさせてもらいました。

 

 参道を県道方面に向かい。赤い鳥居をくぐって、振り返りました。

 

 一の鳥居から県道30号に出て高崎方面を目指します。

 

 地図上では、この辺りで、旧道と分かれるはずですが、交差点の工事中で道がはっきりしません。

 

 県道から右の道へ入ってみます。道なりに進むと、旧道と思われる道に出ました。高崎商科大学の校舎へ続いているはずです。

 

 正面に校舎、左右に学生用の駐車場が現れました。道は間違っていません。

 

 左手駐車場の脇には庚申塔が立っています。

 

 街道は高崎商科大学の正門前に出ます。校門には入学試験会場の看板が立っています。今はどこの大学でも年内に合格不合格が決まってしまうのですね。

 

 鎌倉街道は大学の敷地で分断されているようなので、正門前を左折して、次の信号のある交差点を右折します。

 

 交差点を右折すると、現代の鎌倉街道は一直線に続いています。

 

 一本松橋で烏川を渡ります。左側の歩道は草ぼうぼうのため、右側の歩道を歩きます。

 

 烏川の下流方面です。風の通り道になっているためとても寒いです。

 

 上流方面です。かつての鎌倉街道はこの辺りを舟で渡っていたと言われています。

 

 一本松橋を渡り切ると、現代の街道は新幹線の高架に沿うように左へカーブします。その手前には、左側を並行して走る旧道があり、ガードレールの切れ目から旧道へ繋がる小道があります。しかし、藪に埋まってしまっているので、藪漕ぎはパスして、そのまま舗装道を進みます。

 

 車道が新幹線に沿って左へカーブする曲がり際で、高架をくぐる右の道に入り、高架の右側の側道を進みます。その先、すぐのところで斜めに交差する道が現れます。この左右方向が旧鎌倉街道と考えられるので、この交差点を右折します。

 

 街道は烏川の作る河岸段丘崖を上ります。

 

 右手の街道脇には道祖神が祀られています。

 

 下佐野地区を通ります。

 

 二又は左の細い道に入ります。

 

 新幹線の高架をくぐって、下佐野地区を歩くこと30分弱で放光神社に着きます。

 先ほど訪れた山上碑を建立した僧侶長利のいた放光寺がこの場所にあったと言われています。説明板によると、長利は佐野三家(屯倉)の子孫で、ここ烏川西岸に広がっていた屯倉の中心地が佐野であったことから、放光寺の跡地がこの場所にあったと考えられてきました。一方で、前橋市の山王廃寺から「放光寺」と記された瓦が出土したことから、山王廃寺がかつての放光寺であったという説もあります。いずれにせよ、1,300年ほど前のことです。

 

 放光神社から道なりに左へカーブすると、正面に新幹線の高架が見えてきます。鎌倉街道は高架の手前を右折して側道に入ります。

 その前に、高架の先には定家神社の赤い鳥居が見えるので、寄り道します。

 

 定家といえば鎌倉時代初期の歌人藤原定家で、この神社の祭神とされています。赤く塗られたきれいな社殿は元文4年(1739年)に造営されたと言われています。

 社宝には、定家の子孫にあたる冷泉為茂が元禄7年(1694年)に記した定家大明神縁起一巻や、藤原定家の筆と伝えられる在原業平歌集一冊などがあり、高崎市重要文化財に指定されています。

 

 一角には芭蕉句碑が立っています。

 松杉をほめてや風の薫る音

 

 鎌倉街道に戻り、新幹線の側道を高崎方面に向けて歩きます。

 

 側道から右手に墓地や古墳がある交差点を右へ入り、道なりに進むと、変形十字路の右手に道祖神があります。

 

 ここで、変形十字路(位置的には道祖神の少し手前)を左折して寄り道をします。

 左折するとすぐのところに「佐野源左衛門常世神社入口」という標柱が立っています。

 

 すぐに新幹線の高架に突き当たりますが、その手前の右手には常世神社の鳥居が立っています。

 

 佐野源左衛門常世の逸話は能の演目「鉢木」として受け継がれています。そのあらすじは次のような内容です。

 鎌倉時代の武士であった佐野源左衛門常世は一族にその所領を横取りされ、困窮した生活を送っていました。ある大雪の日に一人の旅の僧が訪れて、泊めてもらうよう望みました。常世は貧しいながらも精一杯のもてなしを行い、暖を取る薪が尽きた時に秘蔵の盆栽を切って僧のために焚いてあげました。その時、常世は旅の僧に、今は貧しい生活をしているが、いざというときは真っ先に鎌倉へ駆けつける用意があると話をしました。

 その後、常世に鎌倉へ来るよう招集が掛かりましたが、鎌倉で彼の前に現れたのが鎌倉幕府執権北条時頼であり、雪の日の旅の僧でした。北条時頼常世の鎌倉武士としての心意気を褒めたたえ、横取りされた領地の他に、鉢の木の梅、桜、松の名前にちなんだ所領を与えました。

 ここ常世神社は常世が旅の僧を持てなした屋敷のあった場所と伝えられています。

 

 さらに、寄り道をするため、常世神社から新幹線の高架をくぐり、マンションの前を右折して、坂道を下ります。そして、次の十字路を左折します。

 

 その先には、

 

 烏川に木橋が架かっています。佐野橋です。風情がありますね。

 

 烏川の下流方面です。

 

 変形十字路から鎌倉街道に戻り、しばらく歩くと、佐野の船橋歌碑(左側の細い碑)が立っています。文政10年(1827年)、延養寺の良翁が万葉集の一句を記したものです。

 かみつけの 佐野の船は しとりはなし 親はさくれど わはさかるがへ

ここにはかつて万葉の時代から烏川に架かる船橋があったことを意味しています。船橋とは船を並べて、上に板を架けた橋のことです。

 佐野の船橋には若い男女の哀しい物語が伝えられ、能の演目「船橋」にもなっています。

 かつて、川の両岸に住む長者の息子と娘が恋に落ち、暗くなると船橋の上で密会をしていました。それぞれの親はそれを許すことが出来ず、会えないように船橋の一部の板を取り外してしまいました。板がないのを知らずに、二人は船橋で会ったところ、橋から足を踏み外し、二人とも亡くなってしまったのです。

 山上碑を建立した長利の放光寺、藤原定家を祀った定家神社、鎌倉へ駆けつけた常世の逸話、佐野の船橋の万葉の句碑と、ここ佐野は古くからの歴史を伝える場所でした。

 

 佐野の船橋歌碑から10分弱歩いたその先で、道は二又に分かれ、鎌倉街道は左へ入ります。

 

 

鎌倉街道上道(18)根小屋から高崎 その4へ続きます。

 

鎌倉街道上道(18)根小屋から高崎 その2へ戻ります。

 

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