今へ続く街道を歩くと

気楽に歩きながら街道の雰囲気を楽しんでいます

水戸街道(1)北千住~千住宿~新宿~松戸宿~松戸 その2

 

2024年12月28日

 

水戸橋

 

 現代の水戸街道国道6号の別称になっています。一方、旧街道を表す名称としては旧水戸街道の他、水戸道中、水戸海道とも呼ばれています。ここでは、主に水戸街道と記載していますが、イコール旧水戸街道としています。

 現代の旅人は千住宿から別れて、東へ進みます。途中、江戸時代にはなかった荒川を渡るため、1時間弱かけて迂回し、その先、徳川光圀ゆかりの水戸橋で綾瀬川を渡ります。綾瀬川は治水のために高さのあるコンクリート壁に囲まれてしまい、この高低差を埋めるために、数十m上流側に迂回して現代の水戸橋を渡ります。橋の欄干には往時の橋を模したレリーフ絵が飾られています。

 

 水戸街道に戻り、すぐのT字路を左へ入ると、

 

 そこには、古隅田川が流れています。鵜乃森橋の脇に木製の橋が架かり、川沿いには緑道が続いています。古隅田川は中川(中川橋付近)と綾瀬川(水戸橋付近)の間を流れる川で、足立区と葛飾区の境界を流れています。かつての利根川は江戸の低地に流れ込み、末流は古隅田川、中川、江戸川に分かれていました。その後、利根川や中川をはじめとする河川の付け替えにより、古隅田川の流れは少なくなってしまいました。江戸の時代には隅田川を境に武蔵国下総国に分けられていて、その名残りで、現在の足立区と葛飾区の境界になっています。

 

 小菅3丁目付近を歩きます。この辺りもまっすぐな道が続いています。

 

 鵜森橋から歩くこと10分で二股の交差点に出ます。街道は左へ入ります。

 

 分岐の左手には「旧水戸佐倉道」の標識が立っています。

 

 二股の交差点を左へ入ってから、水戸街道常磐線の高架に向けて進みます。この辺りの町並みは常磐線の線路を軸にXY方向に区画が造られていますが、水戸街道はそれとは関係なく斜めに通っています。地図を見ると、常磐線を横軸に2次曲線を描いているかのように通っています。もちろん、往時は線路も碁盤目の道もなかった訳ですから、仮に、この道が旧道をトレースしているとすれば、水害等何らかの理由で街道を迂回させたのかもしれません。常磐線に接している辺り、右へ大きくカーブしているところを大曲と呼んでいたようです。

 

 大曲から道なりに10分弱歩くと、都道467号に出るので右に入ります。

 

 交差点の左手角にも「旧水戸佐倉道」の碑が立っています。

 

 都道467号(江北橋通り)を西へ進みます。

 

 道上小学校東交差点を越えた角には、南に向かって遊歩道が続いています。曳舟川親水公園と呼ばれています。曳舟川親水公園はかつて亀有から四つ木まで流れていた曳舟川を親水公園に整備したもので、3kmに及ぶものです。

 曳舟川は江戸時代初期に上水道として整備されましたが、享保7年(1722年)には上水道としては使われなくなりました。一方、江戸後期から明治にかけては水上輸送路として使われ、舟に旅人や荷を載せて、舟につないだ綱を川岸から人力で引っ張る手法(曳舟)が使われました。しかし、こうした歴史のある川も、昭和30年代には埋め立てられてしまいました。

 また、曳舟古上水橋の碑も立っています。江戸時代に上水道としては使われなくなりましたが、その後も古上水堀と呼ばれ、水戸街道には曳舟古上水橋が架かっていました。

 

 親水公園から数分の右側の歩道には一里塚碑とその説明板、そして、水戸黄門一行のモニュメントがあります。説明板によると、一里塚はこの先東へ10mほどのところにあったようです。亀有の一里塚で、日本橋から3里目、千住宿から1里目の一里塚です。

 

 亀有といえば両さんです。亀有駅を中心とした「こち亀銅像マップもあります。

 

 両さん像の先で環七通りを横断します。渡った角にはアリオ亀有があり、30分ほど昼食兼休憩を行いました。

 街道歩きに戻り、その先の中川橋で中川を渡ります。往時は中川には橋が架けられておらず、舟渡しを行っていました。新宿の渡しです。

 

 上流の眺めです。

 

 

新宿

 

 中川を渡り、すぐの新宿小学校西交差点を右折すると、かつての新宿に入ります。新宿は小規模な宿場町で、問屋場はありましたが、本陣は置かれていませんでした。

 右折すると、かつての上町、中町ですが、往時の面影は見られず、ごく普通の住宅街が続きます。

 

 やがて、街道は左へ直角に曲がり下町に入ります。ここで、曲がらずに直進して日枝神社へ寄り道をします。

 

 日枝神社の鳥居をくぐります。

 

 日枝神社は新宿の鎮守で、山王社とも呼ばれていました。創建年代は不明ですが、永禄年間(1558から1570年)とも考えられています。享保14年(1729年)に行われた中川改修工事の際、この場所に移ったとされています。

 

 街道に戻り、下町を進むとT字路に突き当たります。かつての新宿はこの辺りまでで、この場所に水戸街道佐倉街道成田街道)の追分がありました。

 佐倉街道は右手の国道6号を越えてさらに南下する道で、水戸街道は左折して、細い路地に入ります。追分の道標が国道6号側に立っていたようですが、見過ごしてしまいました。

 

 細い路地からすぐに車通りのある道へ合流します。その先で、中川橋から通じている都道467号との交差点、新宿小学校南交差点に出るので右折します。

 すぐのところで二股に分かれるので、さらに右に入ります。

 

 分岐の角には石仏群が並んでいます。

 

 その隣には「帝釈道」と記された、自然石でできた明治時代の道標が立っています。この場所から柴又帝釈天に向かう道が分岐しています。

 

 「浜街道踏切」と記された総武線の貨物線の踏切を越えます。明治に入ると水戸街道は水戸の先の磐城街道を含め陸前浜街道と呼ばれるようになり、その浜街道という言葉が使われているようです。

 

 その先は特に見所はなく延々と住宅街が続きます。浜街道踏切から歩いて10分強で国道6号と合流します。

 

 常磐線金町駅京成金町駅へ通じる金町3丁目交差点を通過します。同時に京成金町線の踏切を横断します。

 

 その先で国道6号は右へ逸れていきますが、水戸街道は直進します。

 

 常磐線の下をくぐります。

 

 すぐの二股を右に入ります。

 

 右手に葛西神社の社標が立っています。

 

 右手に続く参道を進むと、階段の先に鳥居が立っています。

 

 

国土地理院の地図を加工しました。

 

 

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