2025年1月11日
二ッ木
国道6号の別称は水戸街道と呼ばれています。ここまで旧水戸街道をトレースしてきましたが、国道6号沿いはさほど歩いておらず、まだ、国道歩きの苦痛は味わっていません。これからでしょうか。
蘇羽鷹(そばたか)神社前の信号で国道6号を横断して、右手の旧道に入ります。分岐には水戸街道の標柱が立っていて、この先で再び国道6号に出る約900mの間は、当時の道形を残していると記されています。
水戸街道は国道6号から逸れると大坂と呼ばれる坂道を下り、武蔵野線の高架をくぐります。
その先で上り坂に変わります。右に左にカーブしつつ、これまでの旧道歩きとは少々違った雰囲気です。
旧道を歩くこと10分強で再び国道6号との交差点、北小金駅入口交差点に着きます。ここは、国道を横断して北小金駅方面へ進みます。
小金宿
交差点を越えると、かつての小金宿に入ります。小金宿は下町から始まり、中町、上町と続き、その先で右に曲がった横町から構成されていました。本陣や脇本陣があったのは中町で、水戸徳川家の専用宿もありました。
左手には旅籠玉屋が残っています。江戸時代末期の建屋です。
玉屋の標柱と説明板が立っています。このような往時の建屋が残っているのは素晴らしいことです。
小金宿の町並みを進みます。
この先の右手の路地を入ったところで、本陣跡碑があったようですが、見逃してしまいました。
左手には東漸寺があります。まずは総門をくぐります。先に見えるのは、
仁王門です。
さらに、中雀門をくぐると、
本堂の前に出ます。ここまで、200から300mはあるでしょうか。様々な樹木が植えられ、清楚で静かな参道歩きができます。
東漸寺は文明13年(1481年)に経譽愚底(けいよぐてい)上人が根木内に創建したのが始まりで、その後小金城主の高城氏と関係を深め、天文年間(1532から1555年)にこの地に移ったといわれています。また、江戸時代初期には関東18檀林(浄土宗学問所)の一つに数えられました。後の住職、照譽了学(しょうよりょうがく)上人は徳川家康の授戒師(戒を授ける師僧)を務め、徳川家とも縁のある寺院となりました。屋根には三葉葵の紋が見えます。
街道に戻り、先に進みます。街灯には「小金宿」の文字が見えます。
北小金駅の手前、イオンの前の交差点に出ます。水戸街道はここを右折します。
交差点手前の右手角には小金宿碑が立っています。
また、脇には「マツモトキヨシ創業の地」の碑も立っています。
交差点の道を隔てたイオンの駐輪場の前に道標が2本と「八坂神社御跡地」の石碑が立っています。左側の道標は、車道から見ると「右 水戸道中」、西側(左側)から見ると「左 なか連山道(流山道)」と記されています。
また、イオンの建っている敷地にはかつて八坂神社がありました。
ここで、北小金駅へ向かい、駅前で昼食を取りました。
30分ほど休憩した後、街道に戻り10分くらい歩くと、国道6号との交差点、根木内交差点に出ます。ここは国道を横断します。
次の信号のある交差点の左手には、根木内歴史公園の標柱が立っています。
細い小径の坂道を上ります。
根木内城址の標柱が立っています。その先の道は土橋跡で、左右には空堀が築かれています。
土橋跡を通ると、両脇から土塁が迫ってきます。
土塁を抜けると広場に出ます。郭跡でしょうか。
根木内城は、15世紀半ばに高城胤忠がこの地に移り住んで築城したと考えられています。その後、高城氏の拠点は天文6年(1537年)に小金城へ移りました。そして、根木内城は天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原攻めで落城しました。
街道に戻り先へ進むと、すぐのところに根木内歴史公園の駐車場があります。
すぐの右手には庚申塔2基が祀られています。
さらに5分ほど歩くと、流山市に入ります。
向小金福祉会館入口交差点に着きます。
交差点の脇には香取神社の鳥居が立っています。
鳥居の脇には「一里塚の碑」が立っています。失われた歴史的資産であった一里塚を忘れないように氏子の方々が記したもののようです。向小金の一里塚で日本橋から数えて7里目の一里塚です。
碑文の最後には一茶の句が付け加えられています。
下陰を さがしてよぶや 親の馬
一茶が小金牧の辺りで詠んだ句だそうです。
香取神社の創建は元禄年間(1688~1703年)と言われています。
再び、柏市に入ります。この車の列は南柏駅前の交差点あたりから滞っているのでしょうか。
南柏駅東口交差点に到着しました。今日の街道歩きはここまでとして、左折して南柏駅へ向かいます。
そして、南柏駅に到着しました。時刻は13:40です。今日は4時間15分の行程でした。駅チカでお茶した後に、常磐線に乗って帰路につきました。
*国土地理院の地図を加工しました。