奥州街道(3)喜連川本町~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿~金燈籠 その3
2025年5月23日
佐久山
奥州街道は喜連川宿の手前から丘陵地帯に入ります。このさくら市北部に広がる丘陵地帯には、北西から南東へ荒川、内川、江川、引田川等がほぼ平行に流れ、その流域に狭いながらも浸食による平野部を形成しています。このため、地形図を見ると縞々な模様を造り出しています。北へ向かう奥州街道は、丘陵を越えては川を渡り、その先で再び丘陵を越えたりと、あるいは、丘陵と平地の際を通ったりと、変化に富んだ歩きを楽しませてくれます。
引田川沿いを歩き、ほほえみ仏のすぐ先で、さくら市から大田原市に入ります。

こちらは、赤屋根の白漆喰壁の蔵ですね。

ファミマが角にあるT字路に着きます。奥州街道は直進しますが、ここで水分補給を行います。

交差点の角には赤いポールで守られた道標があります。「大田原 㐂連川 片岡」と記されています。この道を左折すると、JR片岡駅方面へ通じているようです。

ファミマの交差点から県道48号に入ります。緩やかな坂を上ってすぐに下ると、権津川流域の平野部に出ます。

その先は急な上り坂に変わります。

直売所の脇で県道48号から左へ入ります。

さらに上っていきます。

その先で下り坂に変わり、佐久山前坂交差点に出ます。交差点の左右方向が先ほど分かれた県道48号になりますが、奥州街道は直進します。

狭い道を下っていきます。

佐久山宿
佐久山宿の江戸口付近です。往時は番屋がありました。

右手には虚空蔵尊堂への階段があります。

その先のT字路を左折します。桝形跡です。角にはなまこ壁の蔵が建っています。

すぐに、先ほど分かれた県道48号と合流します。

佐久山宿の町並みです。

左手、八木澤家住宅の門脇には庵看板が立っています。「運用膏」と記されているようです。運用膏は戊辰戦争では薩摩藩兵に評判の傷薬でした。

豊道春海(ぶんどうしゅんかい)の顕彰碑が立っています。豊道春海は佐久山出身の書家で明治から昭和にかけて活躍しました。

直線の街道が続きます。

右手、消防団の前に「旧奥州道中 佐久山宿 下町」碑が立っています。
佐久山は文治3年(1187年)に那須泰隆(与一の兄)がこの地に城を築き、佐久山姓を名乗ったのが始まりと言われています。佐久山城は街道の南側、佐久山小学校の裏あたりにありました。しかし、永禄6年(1563年)に佐久山氏は一族の福原資孝に滅ぼされ、佐久山城は廃城になりました。その後、関ヶ原で功を上げた福原氏は、4,500石の旗本として、佐久山城跡に陣屋を置き、明治に変わるまでこの地を治めてきました。

隣に建つトイレの壁には、あの有名な那須与一の「扇の的」の絵が掲げられています。那須与一(資隆)は、那須郡を地盤とする那須氏の二代目と言われ、源平合戦で源頼朝に就いて戦いました。弓の名手であった与一は屋島の戦いで、平氏の舟の上に掲げられた扇を射抜くという功績をあげ、以降、鎌倉幕府の御家人として那須野一帯を治めるようになりました。

左手郵便局あたりに井上本陣がありました。
郵便局の脇には村上英俊生誕の碑が立っています。村上英俊は幕末から明治にかけてのフランス語学者で、明治18年(1885年)にフランス大統領からその功績を讃えられ、勲章を授かりました。

奥州街道は右へ直角に曲がり、下っていきます。このあたりに佐久山宿の白河側の口がありました。

坂の途中には正浄寺があります。

坂道を下り終え、岩井橋で箒川を渡ります。

箒川の上流方面の眺めです。箒川は塩原の白倉山を源に発し、大田原市南部あたりで那珂川と合流しています。今日は曇が掛かっていますが、高原山の山並みが臨める絶好の場所です。

その先で河岸段丘崖を上っていきます。

坂の途中、左手の崖の斜面に複数の馬頭観音が祀られています。

街道は馬頭観音が立つところから右の草道に入ります。

突き当りを左折します。

そして、すぐに、県道に戻ります。

直線の街道が続きます。

再び県道歩きが始まって10分弱、田谷川を渡ります。田谷川には驚くほど澄んだ水が流れていて、きっと近くに湧水源があるのでしょう。下の写真は左手上流側です。
